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2021年6月頃、とあるニュースサイトで、興味深い記事を読みました。
要約すると、最近の視聴者は映画やドラマを倍速視聴してしまい、コンテンツ制作者の意図を理解できない。大衆のリテラシーが低いので、情緒を映像の間や絵の趣で匂わせても、つまらなかったと断定されてしまう、とのこと。だからこそ、クリエイターは不本意だが噛んで言い含めるような平明な表現をするのが戦略でもある、とのこと。なお、今回と元ネタの記事でオタクの在り方に触れたのが拙稿「オタクは憧れてなる程の存在ではないけれど」です。
たしかに、SNS上での感想を眺めていると、単調な意見や曲解というのは少なくありません。BLやらGLやらのキャラの関係性萌えで何もかも片付けてしまう見方をされたら、どんなに深淵に作りこんだ物語世界でも、お気に入りキャラがカップル成立しないだけでもう蛇蝎のごとく嫌われてしまうのです。下手したら、異性が一人でも存在しただけでアウトになってしまう界隈のルールがある。彼ら彼女らが大切にしているのは、閉じられたファンダムの中で通じる共感だけ。作品はその絆をつなげるための、にわか利用の素材にすぎない。作者が恨み節をこぼしたくなるのもわかろうというもの。
しかしながら、この類の、「あなたは判ってくれない」クリエイター特有の目線は珍しくはありません。
記事の原文ではデジタルネイティヴ世代を揶揄していますが、恋愛の機微がわからない、本音と建前の区別ができない、そんな人は昔からいました。自分のブログの過去ログを読んでも、感想とは名ばかりのカップル妄想の日記ばかりだったりもする。個人の声が書き残されることがなかったために、ツイッターなどですぐ消費者の生々しい批評が押し寄せることもなかったために、プロの作り手も気にする必要などなかったのでしょう。大衆は無知で無学なのだから、自分が新しい美意識や価値観で世間をあっと言わせてやるぞ、と息巻いているクリエイターならば。
でもね、ごめんなさい。
映画やドラマを飛ばし見したり、小説を流し読みしたりすることは誰にだってあります。
コンテンツが溢れる現代、すべての作品に真摯に付き合うのは不可能です。私だって小津安二郎の映画は好きだけれども、それを手法としてやみくもに真似されたくもない。やたら台詞もなく何ら変哲もない情景ばかりが見開きで延々と何頁も続くような、起伏のない日常に近い漫画なんぞ読まされたくはない。漫画は絵画ではないのだから、写真ではないのだから。でも、そういう作風が好きだという方もいるでしょう。
クリエイターであるあなたが何万時間も、下手すると生涯かけて生んだものを、私たちはほんの数秒で諦めることがあります。それは想像力が足りないだけだからとは限らない。ワイングラスをくゆらしてゆったり喉に流し込むように味わうことができなければ、私たち素人は、作品を大切に扱っていないと判定されてしまうのでしょうか。お前たちはバカな享受者なのだと。そんな余裕が許されない暮らしをしていることだってあるのに。
『鬼滅の刃』というメガヒット作を引き合いに出して、物語は万人にわかりやすくあるべし、という意見が出回っているようです。
しかし、数で売れるほど、世に知られるほど、それはいい作品なのでしょうか。現在、古典として残っている文学のなかには、発表当時、発禁処分にされたり、文壇に酷評されたりしたものもあります。手塚治虫の晩年作は、当時の少年漫画誌では古くさくて読者にはウケなかったとも言われています。セールス数が作品の良し悪しになるのならば、大手メディアのステマやアフィリエイターの提灯記事が幅を利かせることになる。それはある意味、ゆがんだパトロネージュなのではないのか。
自作が受け入れられていない、愛されていないことを嘆く作者は多いでしょう。
しかし、そうした作者もまた、かつては誰かのつくったストーリーの観客だったり、読者だったりしたはずですし、今でもそうでしょう。作家になった人間は、実力がありながら世に不遇をかこつ過去作のよきサポーターだったのでしょうか? いや、そもそも、人気作ばかり浴びるように吸収した読者は必ず素晴らしい創作者になれたでしょうか? 本人の感受性のみならず、人生の経験値や文化資本の度合い、時代精神や生育環境の差によって、ある人の傑作が別の人の駄作になったり、あるいはその逆になったりすることはありえます。作品のファンは、作者の人間性の理解者ではないのです。そして、残念ながら、同じものを好きだからといって、友だちなのでもありません。
とくに急に売れっ子作家になったり、爆発的にヒットしたりすると、ただなんとなく話題に便乗したいお祭り感覚の応援者の割合も増えます。筋金入りのオタクが映像をコマ送りしてはじめてわかるようなマニアックな見識。そんなものをライトに楽しみたい層に披露しても敬遠されます。苦心して盛り込んだ謎を誰も見出してくれそうにないので、わざわざネタばらしする作者さんもいます。しかし、読者は盲目だから見逃しているのではなく、こだわっていないから指摘する必要性も感じていない場合もあるわけです、残念ながら。
一から十まで説明しないと理解されないと嘆く作者さんは、また一方で、自分のこだわりがすべて読者や観客からの賛辞の声で埋め尽くされないと不安になってもいます。ひとつでも皮肉ったコメントや欠点の指摘があったりするだけでこころが折れそうになる。作者が読者を選ぶのならば、読者だって作者を選ぶ。こうした呼吸の合わなさを、この広いネット社会の現代では至るところで見ることができるのです。