「ずいぶん、可愛いいびきね。でも、夢の中まで私を大好きと叫んでくれてありがとう。嬉しいわ」
わたしはもう答えようがなかった。げんなりしてしまう、自分の愚かさに。
だって、消しちゃったものはもう戻らない。その時間は取りもどせっこないのだ。わたしのお父さんとお母さんとの写真がほとんど残っていないように。千歌音ちゃんにとっては、それがどれだけ大事な想い出だったのか。姫宮のおうちの貴重な時間を消してしまったのだ。わたしはなんという失態をしたのだろう。
「ごめんなさい。それ、千歌音ちゃんの…海外勤務のお父さんお母さんからのお祝いメッセージも吹き込まれた、貴重なものだったのに…」
「両親とはいつでも国際電話できるし、演奏はいつでもできるわ。でも、姫子の今の心の声を聞けるのは、そのときでしかない。もし、こんな偶然がなかったら、私は姫子の本当を知らずに苦しめていたかもしれない」
千歌音ちゃんはわたしの両親がすでにいないことを知っている。
だからこそ、気を遣ってくれているんだ。
「そんな…そんなことないよ」
「それにね、私もあるのよ。両親の大事なものを壊してしまったことがね。お父様の愛用の万年筆とか、お母様のコンパクトとか。でも、わざとじゃないのなら、叱らないのが我が姫宮家のルールなの。物はいくらでも買い直せばいいけれど、壊れた気持ちはすぐには戻らないから」
千歌音ちゃんはわたしをそっと抱きしめた。
生まれた時からお姫様然としたこのひとはきっと、わたしに出逢うまえから、周りの人からいっぱいの愛情を注いでもらったんだ。親戚の小父さんは、わたしがすこしでも家の中のものを触ると折檻してきたけれど。だからそんな失敗したことに怯えるわたしの慰めかたを千歌音ちゃんは知っているのだ。愛されているひとからの愛。わたしはいま、そのお裾分けをしてもらっているんだね。
「それから、この姫子の写真、持っていてもいい?」
「でも…そんな可愛くない顔のわたし、ちょっと恥ずかしいな」
「そんなことないわ。両親にも大事な人ができたって報告できるもの。うんざりするほど送られるお見合い写真よりも、私には、これだけあればじゅうぶんなの」
「…ええっ?!」
それはちょっと早すぎない? わたしたち、まだ出逢って一週間ばっかだよ。
このおうちに来たのだって、つい二日前だったし。なによりも、まだ乙羽さんはじめ、わたしはなんだかお客さん扱いでなじめないのに。だから、あんな千歌音ちゃんを手にかけるような夢を見てしまって、わたしは怖くなったんだ、きっと。あなたのことだって、まだよく知らないのに。また自分の居場所を失うんじゃないかって怯えてしまったのだ。
写真に口づけてから、千歌音ちゃんはウインクしてみせた。
「私は一生この一枚を大事にするわ。今後の戒めにね…姫子が泣いたこの夜のこと、忘れたくないの。だって、こんなにまで貴女を追い詰めてしまったのは他ならぬ私ですもの」
「違うよ、千歌音ちゃん! わたしはひとりでかってに落ち込んでいただけなんだ。ほら、もう平気平気」
わたしはわざととりつくろった笑顔を見せた。でも、どうしようもなく瞳からはあふれるものがあった。
どうしてだろうか、嬉しいのか、悲しいのか、苦しいのか、楽しいのか。もうわからない。泣き虫なわたしは、胸のなかのざわめきを抑えられなかった。このひとのまえで泣いたらいけないのだ。自分だけがかわいそうで流す涙は卑怯だってわかっているのだ。
でも、止まらない。だって、きっと、ほんとうだったのだ。
わたしが千歌音ちゃんを死なせたことがあったことは。なぜ、あの日はそうなったのだろう。そのために、このひとは暗黒の月の世界へ葬られてしまったのだ。
そのときから、今までずっと。
千歌音ちゃんのすがたは、剥がれてしまった切手みたいなものだった。日付もわからない、どこにも届けられっこない、どこから来たのかも不明の手紙と同じで、この悲しみは、わたしの手元に残ったままだったのだ。誰かに書きつけたい言葉があるのに、わたしはそのひとの宛先も名前もわからない。涙で濡らした切手はいつもすぐに取れて、なくなっていた。いつになったら、その返事は届くのだろうかと待ちあぐねたはずの、あの日の約束の言葉を、いま届けるべきなのだ。なのに。
【目次】神無月の巫女二次創作小説「君の瞳に生まれたエフェメラ」