陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

劇場版「 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者」(後)

2008-01-15 | 感想・二次創作──鋼の錬金術師

読者の皆様、ごきげんよう。
観ました。『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』

正直、そんなに期待していなかったのですが。以外とおもしろかったので、感想まいりたいと思います。公開からもう時間経ってますので、ネタバレOKかと思いますので、お許しを。

ぶっちゃけ、この映画をひとことでまとめますと。
兄弟愛>>(越えられない壁)>>男女愛 でしょうか。
ウィンリイかわいそうって意見がよく聞かれたのですが、ラスト観てのみこめました。水島監督、空気読んでます。ぼーいずらぶ好きなお姉様方を敵に回したくはなかったようです(笑)

この劇場版は、アニメ版最終話で住む世界を違えてしまった兄弟ふたりが、互いの存在を求めて扉を行き来してしまう物語です。

まず出だしがよかった。アニメのデコボココンビをほうふつとさせるエピソード。アルフォンスがもうずっと人間ヴァージョンで出ずっぱりだと信じていたので、これは嬉しい。この鎧が釘宮嬢の甘いボイスでしゃべるという姿は、その後も本編で登場します。
そしてはじまるOP、DVDの表紙絵やアニメの名シーンを効果的におりまぜ、スタッフロールを配したスタイリッシュなデザインが目をひきます。このアニメ、そこたしのアニメとはことなって、キャラの色数をおさえて黒や青を貴重とした画面づくりにしているので、ひじょうに見目よい。アニメながら、髪の色を実物に近くするなど実写の映画と変わらないクオリティを誇っていて、私としては好感度が高いです。TVシリーズでもそうでしたが、生身のアクションも迫力がありました。とても週間アニメーションとはおもえないすぐれた出来映えです。じっさい、海外でもかなりの賞をいただいて評価もたかいそうですね。

舞台は一九二三年のミュンヘン。アルを人間に錬成して扉の向こうに飛ばされたエドワードが暮らす町です。彼はうしなわれた故郷へ帰ることを夢見て、土地の人になじもうとせず、ロケットの創作に熱を上げていました。史実によればこの年のドイツでは、ナチ党党首ヒトラーが政権掌握をもくろみクーデターをひきおこす。このミュンヘン一揆とよばれる事件に取材した時代設定であったようで、敵方には実在の人物をモデルとしたキャラクターが多数登場し、政治色をふかめています。トゥーレ協会というのも実在していた。またプロトタイプ原稿には、ルドルフ・シュタイナーなどの名も挙がっており、そうとうに歴史をふまえたつくりこみがなされてた模様。

異世界なのに、ヒューズやブラッドレイのそっくりさんなども登場。序盤は世捨て人のように覇気のないマスタング大佐も、雨が降っていなかったからか(笑)最終局面では、悟飯をたすけるピッコロさんなみな(?)かっこいい登場で大活躍!きっと劇場では、お姉さん方の黄色い歓声がひしめいていたことでありましょう。大川透氏いいお声です。
待望の水樹奈々嬢演じるラースくんについて。台詞こそ少なけれども、重みが感じられる役どころ。彼のバトルシーンは錬金術をつかわないぶん、肉弾戦としてこだわりが感じられました。グラトニーの軟体が気持ちわるかったですが、ラースくんかわいさに我慢しました。エルリック兄弟をめあわせるためにみずから門の鍵となるシーン、そして亡き母イズミ師匠(なぜか映画では故人にされている!)のもとへ逝く場面は、すこし泣き入ってしまいました。彼もまた引き裂かれた縁(えにし)の再結合を願っていたのですね。

設定などがすごいのですが、しかし話しの大筋としてはいまいち緩さを感じます。
たとえば、ラスボスの聖子ちゃんヘアのかとうかずこ(が演じるエッカルト女史)が、錬金術世界の魔術を現実世界にもちこもうとして扉を開いたのに、急に目的の矛先を錬金術世界での虐殺をかえたくだり。もしくは、アルのそっくりさんである同居人アルフォンスを無下なく射殺してしまったところ。それから千里眼の能力をもち、序盤の扱いの大きさから物語におおきくからむかと思われたゲストキャラのノーアが、けっきょくは飾り物にすぎなかった点など。これらは、ひとえにマスタング大佐など元々のメインキャラの絶大な人気を加味して活躍の度合いをたかめたがため。ほんらい脇役に徹するはずの彼らが前面にでてきてしまった反動なのでしょう。まあ、ファンとしてはそのほうが断然嬉しかったのではあるけれども。

最大の不満は、不遇な最期をむかえたアルフォンスくんの声優さんが小栗旬くんだったことでしょうか。いえ、彼の演技力じたいにはまったく問題はなかったのですが。いかんせん、あのアルとおなじ顔だちなのに、あの音程の低ーい男の声はこころ萎えてしまいました。こんなの俺のアルフォンスじゃねぇえええ!と、中の人もへきえきしていたので、エドは一刻も早く元の弟のいる世界に戻りたがっていたに相違ございませんッ(違)
にしても、この作品、ベテラン声優をそろえていて往年のアニメファンとしてはけっこう嬉しかったです。あの芸術的錬成筋肉バカが「我が生涯に一片の悔いなし──ッ!!」とか叫んでそうで(叫びません)
人気タレントを声優に迎えるのは最近の話題づくりでよくあることなので、まあ致し方ないとして。このアニメ、音楽がすばらしいのも魅力的。ポルノやラルクの歌うOPやEDは、いまでもこころに残りますね。アニメの内容知らずとも、その歌詞だけ覚えている方もいらっしゃるのでは。「きっみの手で~きっりさいて~」というテンポのよいフレーズがいまでも耳をはなれない私です。
本作では、作中に挿入されたジプシー女性のエキゾチックな歌唱がことさらにすばらしく、感動をおぼえました。

しかし今回の映画版。テレビアニメの完結編と銘打たれたとおり、賢者の石を求めて旅を続けた兄弟のとうしょの目的は果たされたといえそうですね。
十代前半に人体錬成という禁忌を犯してふたりがうしなったもの。兄の右手右足と、弟の肉体。その片方だけでもとりもどせ、そしてふたり仲良く人間として異世界でくらしてゆくのですから。
また、アニメの終盤で唐突にもちこまれた現実世界と錬金術世界との平行世界設定にも、扉を破壊するということで終止符が打たれています。
錬金術が発揮できない現実世界、兄弟たちはもう不思議をおこせない。生まれた故郷へつながる道はもうなく、貧困と民族差別と政治闘争がうずまく第二次大戦前の狂乱のドイツが、残された生涯の場所。物語序盤でエドはさかんに、ミュンヘン世界を自分の夢だと語っています。しかし、不気味に迫り来る戦争の足音にこころを逸らして映画に没頭する事なかれ主義のユダヤ人映画監督フリッツ(こういう芸術家はたぶん多かっただろう)や、あるはずのない新天地を望むさすらいの民族ジプシー女ノーアの妄念に、難色をしめしだすエド。それは、みずからの幻想に気づいたはじまりなのです。TVシリーズでも描かれたように、旅を通してたまさか交流したひとびとから、自己の罪悪を問うというスタイルはここでも貫かれています。
最終的にあれほど嫌っていたミュンヘン側での永住を選んだのは、エドが自分の思う故郷こそがじつは夢の国であって、いま生きる凄惨な社会こそが骨を埋めるべき現実だと思い至ったからなのでしょう。そこには、制作者からのメッセージがこめられているようにも感じとれました。
ただ、エドはともかく。兄に会いたい一心で扉を開き、アメストリスに現実ドイツの災禍をよびこんでしまったアルが、自責の念にかられていたのに、あっさりミュンヘンにやってきてしまったのはどうかと。兄同様すぐれて錬金術の使い手であるのですから、荒廃したアメストリス世界を復興するために手を尽くして生きるのが筋なのでは、と不謹慎ながらも思ってしまいました。ずっと待っていたのに兄弟で旅立たれてしまったウィンリイが、かわいそうですね…。兄のいない時分にはエドを慕うかのように装い身を似せていたアルですが、ドイツへ渡ってからはほんらいの短髪、白シャツの似合う少年になっていました。彼はエドに代わる天才国家錬金術師ではなく、エドのただひとりの弟としての人生を選んだのですね。

引き裂かれた兄弟ふたりが寄り添っても、待っているのはつらい現実。第一次大戦の賠償金で苦しむ国家と世界恐慌、大量の失業者、不穏な風のとどこおる社会情勢。どこか我が国の現状と相通じるものがあります。扉の向こうは天国なんかじゃない。アニメに登場する真理の扉が、有名なロダン作の「地獄の門」を模しているのも、むべなるかなと。「我を過ぐれば憂ひの都あり、我を過ぐれば永遠の苦患あり、我を過ぐれば滅亡の民あり」とダンテの『神曲』に謳われた地獄の門。それははたして、開かずの扉であるべきでした。
錬金術世界からひとり現実世界へもどるエドは、その地獄の門の銘文をしめくくる一句さながらに、一切の望みを棄てて、この門をくぐったのでしょう。残してきたノーアやアルフォンスの意に報いるためにも。しかし、希望の種は思わぬところからひっついてきてしまったようで。けっきょく、兄弟水入らずの生活がはじまるのでした。
副題にある「シャンバラ」とは、チベットの密教教典に記述がある、ヒマラヤ奥地にあるとされる聖地。彼岸(死後)の世界ではなく、この世にあるとされる特定の現実世界のこと。仏教では世界は多数の世界からなりたち、この世もそのひとつにすぎない。神智学の創始者であるブラバツキー夫人もチベット聖者から教えをうけ、またヒトラーもチベット僧を招いてヒンズー教に傾倒していたといわれています。現実にあって現実を楽園にかえようとする世界。ふたりの兄弟がえらびとった世界としては、その名を冠するにふさわしいのかもしれません。ミュンヘンのオカルト主義者たちが夢見ていたシャンバラは、扉の向こうではなく、こちら側にあるのだという答え。科学技術が発達した近代世界、そこにおいてただの人間として兄弟が、いかにして暗い時代に立ち向かっていくのか。その後日談は、おのがじし視聴者の胸に委ねられているといえる結びであったのでしょう。

話がすすむにつれて、原作の設定を大幅に離れていくアニメ版。この映画にしても、どちらかというと人気作品のアニメキャラを流用した監督のオリジナルアニメもしくは二次創作物めいたものという気がしないではないですが。『パタリロ』キャラを源氏物語アレンジするのもオッケーな当世でありまして。もともと、錬金術や炭坑、場末の酒場など、物語自体にリアリティ要素がふんだんにもりこまれているので、問題なし。

そういえば、このアニメの放映終了後にラジオを聞いていたことがありました。朴さんと釘宮さんとのラヴいトークが微笑ましかったです。いやはや、懐かしさがよびもどされた一夜でした。






余談ですが。
この記事を書くのに熱中していたら(これを書いたのは十四日)、『ヤッターマン』の第一話を見のがしてしまいました。ああああああああああああっ!!(大後悔)祝日って曜日の感覚が狂いますね。



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