陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

翠のゆりかご

2009-01-19 | 自然・暮らし・天候・行事


どうやら自分がどうしようもなく、砂漠のゆりかごだと気づいたのは、二年ほど前の夏であった。

その年の夏も例外なく暑かった。
当時勤めていた職場から、花の鉢植えをいただいた。丈六〇センチほど、ひと抱えもある鉢で部屋には置けず、ベランダもないので外の通路に妨げにならぬように置かせてもらうことにした。その日から、朝と晩に、忘れず水やりをするのが日課になった。私はこの新しいチャレンジに夢中になった。

三日ほどした夕刻、帰宅した私はすばらしい奇跡に瞠目した。みっつほどの蕾がおおきく開き、オレンジいろの美しい花を咲かせていたのだった。その日は仕事でもいいことがあって、留守番の花が祝いの顔して出迎えてくれたようなくすぐったい気持ちになった。毎日、出がけと帰り際にその花にあいさつを送るのが楽しみになった。花に疎い私は、それがどういった種であるかも知らずにいた。それでも、ただその花が私の返す喜びのために、なおいっそう日々翠を豊かにし、淡く色づいていくことが嬉しかったのだった。いままでそこたしに咲いている花にそのような想いを寄せたことなどなく、植物好きの母にも自分に似てないことを呆れられていたのに。

その翌日、帰宅するといつもの場所に花が待っていない。悲しい痛みが胸に走ったが、それは取り越し苦労。べつの鉢植えが集まった縁台に、花は無事移されていた。花好きの家主が、ひとつだけ孤立した鉢植えを不憫に思ったのかどうかさだかではない。
多くの花木のなかに埋もれると、安全に囲われたという安堵の気持ちと同時に、もはやそれが自分の特別のような気がしなくなった。その花が周囲のお仲間にくらべて、見目劣るというのでもない。正直にもうしあげるとおかしな民主主義がはたらいて、自分の愛すべき花だけに奉仕することがためらわれたのだった。その鉢植えの列のなかにおいて、自分のひと鉢だけにていねいに水やりすることが、決まりの悪い、気前のわるいことのように思われる。かといって、ていねいにすべてに水をやっていては遅刻してしまう。とたんに毎日の日課が、とても重荷になった。
しかし、いちど朝の水やりを忘れてしまっても、誰かがかってに代行してくれている。こうなると怠け心がおきてきて、私は一週間としないうちに、まったく花のことなど気にかけなくなっていた。そして、薄情な夏の花主の興味は近日届いたばかりの趣味の買い物に、すっかり注がれてしまったのである。

くしくもその日は原爆の落ちた日だった。
職場で悪いことがあって憔悴しきった私に追い討ちをかけたのは、あの夏の花の無残な姿。葉は干涸びていて、しぼんだ花が地面に落ちていた。割れた風船のような無残に裂かれたオレンジの花びらが、地にへばりつくように散っていた。残っていた蕾は、そのあと水を与えても開かなかった。強すぎた太陽と、近所の鉢植えから悪い虫でももらったのかもしれない。


今年のお正月にとくに抱負はなし、と自堕落に語ってしまったのだけれど、それではいささか生きる張り合いがなさすぎるので、ちいさな目標でも立ててみよう。
〇九年にしたいことは、ささやかな望みである。それは、翠のゆりかごになること。

空想に夢中になると自分の寝食も忘れてしまうような人間が、いのちを育てるというのは無謀なのかもしれない。
抱きしめたものを枯らしてしまうとか、昼には熱くても夜になると急に冷めてしまう気持ちの火加減であるとか、潤いや栄養をいちどきに浪費してしまって、ため込んでおけない体質であるとか、そんな砂漠のゆりかごの自分である。

その私が今年こそやってみたいと思うのが、植物を育てること。じつはこれまでなんども挫折した。私のような怠け者が育てられるものといえば、トゲトゲした翠のモニュメントぐらい。さいしょはサボテンでも仕方がないが、あるていど、見映えのいい観葉植物を育てたいと懸案中である。
観葉植物は目にもやさしいし、部屋の空気を清浄にする作用もあるというので、ぜひとも挑戦してみたい。









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