陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「日陰の花と陽ざかりの階段」(十一)

2008-09-17 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女

真琴の語りには、思い出し笑いが含まれていて、それが千歌音のこころを明るくする。
自分の知らない姫子との想い出。それをもっていることを妬ましいとは感じなかった。姫子と自分のあいだには千年分の想い出があるのだから。苦しさや悲しさも含めてであろうけれど。


「一年のときだったかな。体育の時間でね、姫子ひとりだけ逆上がりができなくて。放課後、校庭の隅っこの鉄棒での特訓につきあったんだ。いつも寮の相部屋でのトレーニングにつきあってくれてるからさ。でね、ふしぎなんだ、姫子の逆上がりって。ちゃんと、足を蹴りあげて鉄棒にのぼるんだけど、そこでずっと止まっちゃう。あとひと回転すればいいだけなのに。一分ぐらいかな、ずっとそのままの体勢で、顔を赤らめながらまた降りちゃうの」

人気のすくなくなった土曜日の夕方のグラウンド。
茜いろに染まった地面には、コの字形とふたつの少女の影が間延びしていた。Jの字形の板をすべって踏み叩く足音がなんども響く。ちいさな土ぼこりが少女のスニーカーからあがって、ゆるくまとめた黄金いろの髪が垂れさがっていた。鉄棒でくの字にからだを折った体育着姿の少女は、恐る恐る目を見開いた。
そこは、ふしぎな景色だった。暗くなった山の端が空に浮かんでいて、紅い太陽は刻を偽って昇ろうとしていた。夕雲は春霞のように下方へ沈み、ゆったりたなびいている。まるで雲海のうえをつきぬけた朝陽を見る思いだった。あとすこしすれば、空の上下に星の海が満ちてくるだろうか。闇にまたたく星々と、生活のイルミネーションがひしめきあった街の銀河とが。

少女は目をまるくして、その光景をつぶさに眺めていた。かたわらの少女は、その横顔を見守っている。

「ね、姫子。あともう少し、くるりって体回せばね、それで終わりなんだよ。姫子サンは、どうしてそれができないのかな?」

つぶらな淡い瞳のなかに、呆れ顔の少女が映しだされる。
もうなんども見守ってきたけれど、いいかげん日暮れどき。そろそろタイムリミットで、逆上がりの極意をまだつかまずにいる親友にしびれを切らしていた。真琴の声はすこしの苛立ちをふくんで、姫子のお尻を叩いて回転をうながそうとする。それでも回らないので、背中を支えてむりやり反転させようとしたら、姫子が困った顔をした。

「わっ、急かさないでよ、マコちゃん」
「こら、いいかげん、できるようにならないとね。いくら寛大なマコト先生でもあきれて置いて帰っちゃうぞ」
「だってね、もうすこしなんだよ」
「なにが、あとすこしだって?もう三時間もおなじことやってるのに、一回も成功してないぞ。もう帰っちゃうぞ、さいなら~」
「わっ…ま、待ってよ!マコちゃんってば。…うわっ!」

背中でバイバイを言って帰ろうとする真琴に、慌てふためいて呼びとめる姫子。片手をはずしてバランスを崩したために、落ちそうになって、とっさに振り返った真琴がうけとめる。あたたかい吐息とやわらかな髪を頬に感じて、くすぐったい。怯えた仔猫みたいに縮こまって、首にひっしにしがみついてくる姫子がなんとも可愛い。ふるふると震える上体を抱きとめていると、鉄棒にのぼっているだけで姫子がもうせいいっぱいなのが分かる。こんなにも恐ろしい思いをしているのに、それでも我慢して。この子ははたしてその不自由な時間から、なにを掴もうとしているのだろうか。

「ほら、もう危ないなぁ~。あたしが目を離すとすぐこうなんだから。きょうは最後まで見届けてあげるよ。でも暗くなったらタイムアウトだからね。門限やぶりでまた寮のトイレ掃除なんてやだよ」
「うんっ、ありがとう。マコちゃん、大好きっ」

溜め息をついて姫子の逆さまの横顔の脇にしゃがみこむと、真琴はその柔らかい頬をいじめるように軽くつつく。姫子はくすぐったそうに微笑んだ。

結果はでない。けれど、こんなこそばゆいような時間を繰返していることが、いつもはコンマ一秒を争ってグラウンドを駆け抜けているスプリンターには、嬉しくも貴重なもののように思えた。
時間はばねのようなものだ。どこかでせっかちに時間を縮めていても、いつか緩んで贅沢につかいたくなるときがある。この村の時のせせらぎのように、ときには鈍いと思えるほど和やかに生きている少女と過ごす時間。十代にしては過酷に肉体を酷使する日々をおくる真琴にとって、そのやさしいひと時ほど恋しいものはなかった。
だから、帰るなんてうそ。とことん付き合っちゃうのが、やっぱりあたしなのだ。真琴は我ながら自分の甘さに苦笑する。

「ね。マコちゃん、おもしろいね。街が逆さまにみえちゃうの。夕陽は昇っていくし、ふしぎだね。こんな風景じっくり見ないで、すぐ回っちゃうなんてもったいないよね。どうして、みんな、ちゃんと見ないのかなぁ」

姫子にうながされて、真琴も鉄棒で逆さまに世界を観察してみた。バウムクーヘン状に輪をたばねた赤土のトラックを白いゴールに向かってまっすぐに走ることしかなかった真琴にとって、風景は流れていくものだった。風のように生活を急いで、たちどまることの許されなかった選手の目の前には、いま斬新な世界がひろがっていた。いつも見上げてばかりいる空を蹴りあげてやるのも、なんだか小気味よかった。
逆さまになった灯ともし頃の世界のなかで、菫いろの瞳の笑顔がそこにはあって。もしおそろしく天地がひっくりかえるような事態がおこっても、その彼女の笑顔さえあれば、なにも煩わしくはなく苦しくはないだろう。

おそろいで逆さまになった顔をみつめあっていると、唇がかるく触れあった。紅いリボンを大きく揺らしながら、姫子はみごとにぐるんとからだを起こして、着地した。

「…姫子?」
「いまのはね、教えてもらったお礼。ほら、ちゃんとできるようになったでしょ?マコちゃんのおかげだよ。ありがとね」

後ろ手に組みながら、陽の髪の少女は照れくさそうに振り返った。逆さまにみても、その笑顔はかわりなく愛おしくて。鉄棒にぶら下がったスプリンターは、血が上りすぎて、うっかりずり落ちそうになった。



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