その昔、日本での定年といいましたら55歳でした。
法改正にともない年金受給開始年齢は65歳に。いまの現役世代が公的年金を戴く頃にははたして、何歳が後期高齢者にされているのでしょうか。70歳、いやそれ以上なのかもしれませんね。日本の高齢者の数は年々増加し、百歳以上のお年寄りすらものきなみ増えています。
小泉政権時のマクロ経済スライド抑制による、物価は下がったのに年金支給額は高止まりという現象が長く続きましたが。先般の厚生労働大臣の発表によれば、将来的に年金支給額を抑え、低所得者層に手厚い制度改革をするとのこと。たしかに数年前の法改正により、国民年金の支給要件を加入期間25年から10年に短縮しました。しかし、昨年あたりには厚生年金の在職老齢年金(高齢者給与所得者が働きながらもらえる年金)の支給限度額を緩和させており、働き盛り世代には厳しい措置とも言えましょう。
私たちが若い頃よりもなお若年層で、老齢世代への反発心が根強くあるのを感じます。
投票者が多いから政治が高齢者優遇である、池袋の母子死亡事故のように上級国民の老人が犯罪を犯しても減免罪される、富裕層は年寄りが多い、ワクチン接種も高齢者が優先。私も取引で、あるいは勤め先で、迷惑をかけられたのは圧倒的に高齢者層の方が多いです。そして、自分もいずれは彼らのごとき老害と呼ばれる立場になるのだろうかという恐れもあります。
のっけから、敬老の日にふさわしくない書き出しで恐縮です。
けれど、しばしば考えるのが、どなたかの、あるいは、いずれの自分の老いとの向き合い方。
先日、ふと思い立って空き家にある荷物を開いてみました。
避難させていたのは、学生時代の論文、レポート、研究資料、講義ノート類。二十代の学生だった私が国立大学で受けた美学講義のノートの一部に目がとまりました。
ノートに添付していたのは、助教授(当時)による、受講生に課されたレポート。
「火災に遭った美術館で名画と凡庸な老人と、どちらを助けるか」というものでした。教官によって一部のレポートが発表され、そのコピーが全員に配布されたのです。ノートに複数人のがあったのですが、その一人の回答の要約を以下に。
***
凡庸な老人はどんなに頑張って余生を送ろうとも傑作を描くことはできない。したがって、私は価値のある名画をもって逃げようと心決めしていた。しかし、私はとっさに老人の手を引いているだろう(老人に名画をもって逃げろと言われた場合を除く)。私のこの気持ちと似ている谷川俊太郎の「夕焼け」を引用する。
家に年寄りがいるのはいいことだ
あかんぼがいるのと同じくらいいいことだ
始まりがあって終わりがあるから
始まりもなく終わりもないものが見えてくる
人生をたらふく食ったあなたの顔は
優しさと厳しさとあきらめとしたたたかさとがまじり合い
しわの間にあかんぼの輝く無垢も
透けて見える
ひとりのあなたの魂の底にひそむものは
世界中のどんな大事件より巨大だ
だが今のあなたの顔に浮かぶのは
残り少ない未来にむかう静かな微笑み
それはあなたの今日をぼくらの明日に生かすための
ただひとつの贈り物
芸術的にすばらしいものは残酷な要素を含んでいる。名画をもって逃げることのできぬ自分は創作者として弱いのかもしれない。しかし、それでも後から非難されようとも、私は老人を助けるだろう。
【詩の引用は一部省略、谷川俊太郎著『真っ白でいるよりも』より】
***
このレポートの作成者は私の同級生であり顔見知りではあるが、親友ではない人です。
調べてみたら、現在は上京し画家兼陶芸家として活躍されているとのこと。この課題を私がよく覚えていたのは、当時、50代の父を亡くして間もなくであり、自分の研究対象としての芸術作品と、人間の命とどちらかを二元論的に選択せよ、と迫られてショックだったからでした。このレポートを提出できたのかすら覚えておりませんが、出席だけはしていたので、単位は取得できたはずです。
失礼ながらも、若輩者の私はこのあまりにも素朴な文章が優秀作として教官のお目がねに適ったことが理解できませんでした。
論理をこねくり回して賢そうな言葉を連ねて、面白おかしく、芸術作品の価値とは、人命優先のヒューマニズムとは、そんな論点から語るレポートは他にもありましたから。東大博士号持ちで海外留学経験もあるエリート研究者が、なぜこれを選んだのか訝しんですらいました。
でも、今なら絶対にわかるのです。泣きたくなるぐらいにわかる。
その教官は今の私と同じくらいの年齢でしたし、彼は初期ガンが見つかって摘出手術を受け生還したばかりだったはず。人生を日延ばしにして、月を重ねて、長くすることの大切さを、われわれ学生に語りたかったのだと。私たちは何者かになるか、ならないかにかかわらず、老人になってしまうからです。
就職氷河期世代の私たち学生は、当時、さほど老人を忌み嫌ってはいませんでした。
ちょうど小泉政権時代で、介護保険制度が整備され、介護福祉士が専門職として有望だとして大学の学部もつくられていた頃です。姥捨て山思考などなかったですし、お荷物だと考えてもいなかったです。百歳のきんさんぎんさんは、可愛らしいおばあちゃんとして国民のアイドルでした。
而して、現在はたしかに長寿の影に晩婚化やヤングケアラーの問題も潜んでいます。
私の祖父母はすでに鬼籍に入りましたけども、もし存命であれば、父母をふくめた三世代の軋轢のなかに放り込まれていたのかもしれません。
老人世代と同居することは、これすなわち古い価値観との共存を図るということです。
田舎ではしばしばそれが障壁になり、家族崩壊の導火線になりえます。自分の祖父母の末期からして、年をとるということは、認知を損なうということは、自分が自分で抑制できなくなる恐ろしいことなのだとと感じていました。外見のみならず、精神状態の劣化が恐ろしいのです。正常な思考を保てないのに、解決できぬ問題だけが残っていく。それは、今の日本の姿でもあるのでしょう。日本は若い国ではないのです。
上記の設問に照らせば、芸術作品であろうと、一介の取り柄のない老人であろうと、不要な、役立たず、とされる存在には違いないのです。
どちらを優先するかでその人の人格の高潔さや教養の深さがわかる、というのでもない。そういった試金石のための問いなのでもなく、左右に分かれた答えとしてあるわけではない。線引きされた陣地で正しさを盾にして対立しあうものでもない。だからこそ難しい。
ただ、誰かの心に問いを投げかけるのを使命とするはずのクリエイターならば、自分と同じ絵を好きなひとが隣に無事でいてほしい、そういう世界を願うのではないか──と私は思うのです。
美学の門徒でありながらも、「それでも凡庸な老人を助けたい」と答えた彼女の美学こそが、まさに学問が追及すべきものの究極の目的ではないでしょうか。社会保障費や医療費の高騰などというニュースを聞くたびに、どこぞに悪者を見つけたくなる小心な私にはとうていたどり着けない境地なのです、それは。
(2021/09/17)
【画像出典】
ドメニコ・ギルランダイオ《老人と孫》1480年頃、テンペラと油彩、板絵、ルーブル美術館