陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

球いろ空間

2008-03-26 | フィギュアスケート・スポーツ


〇七年の晩夏のことです。
知人に誘われて、地域リーグの公式野球戦を観戦しました。去年もその方に連れられて観たので、二度目です。
地元球団は弱小チームで前回も惨憺たる結果だったのですが、今回は先取点を許したものの、投手の好投とホームランで逆転、最後は二死で走者を制し、快勝しました。

私は(フィギュアスケートや体操など芸術点を競う種目を除き)スポーツというのはする楽しみであって、観る楽しみではないと常々感じていました。観客のあのどんちゃん騒ぎが好きでないのです。それは美術館や映画館や音楽ホールでの静かな鑑賞とは、まったくことなる観る態度を要求されてしまいます。
しかも野球といえば、日本のプロスポーツの代名詞で、政治的な思惑が横行していたり、親父くさい趣味だなぁと醒めた目でみてしまったり。また熱烈なファンには、自分の好きなプロ野球チームを応援していないと排他的な扱いをされてしまったり。
そして、いちばん嫌なのが延長試合で深夜番組の予定が狂わされてしまうことでしょう。あの教育者の新渡戸稲造も、「野球は害悪である」と罵倒しております。爾来、そんな野球嫌いな私であまり乗り気ではなかったのですが、今回の観戦では、思わぬ発見をしてしまいました。

この前年に訪れた球場は、市内中心部にあって交通の便がよく、かなり賑わっていました。やや施設がふるく、一階が選手控え室、二階が観客席。三方を海に接した街で近くを海から通じて市を貫くおおきな川が流れています。したがって、真夏とはいえ夜ともなるとかなり冷たい風が吹き、身をちぢみあがらせながらの観戦でした。
今度の観戦舞台は、県南部にあってまだしも夏のほどよい大気の熱さは、闇のなかに散ってはいませんでした。
山あいに築かれたその真新しい球場は、収容人員千数百人ほど。その半分ぐらいしか座席が埋まっておらず、耳障りな派手な鳴り物集団の応援もちかくにいなかったので、安心でした。
観客席はマウンドとさほど高さかわらない平面上にあって、狭い球場ですから選手の様子がよく観察できるのです。

目の前のフェンス越しに、相手方の控えバッテリーがキャッチボールをしていました。また、試合の合間に投手は各塁手と送球をして肩ならしをしています。その、ボールがゆるやかな弧を描きながらグラブにおさまるときの、ぱしっ、ぱしっ、という軽妙な音がとてもよく響いてくるのです。日頃、TVのナイター中継やら、アニメやドラマの投球シーンでは、ピッチャーの指から離れた白球の空を切り裂くような音や、金属バットに当たったときの快音ばかりが耳に残っていたので、すごく新鮮に聴こえました。

またそうした、勝ち負け関係ないところで球運びをしている選手たちの表情もとてもいい。白い歯をみせて笑いながら、少年のごとき瞳をかがやかせて球を追っている彼らのすがすがしさは、とてもどろどろしたプロ野球の中継ではみられないものです。もちろん、試合が終盤にさしかかると、こういった余儀めいた運動はしなくなって顔に真剣さが走ってしまうのですが。扱っている利害もとりまいている権力も桁違いで厳しいプロリーグの世界と、二軍にひとしい戦力の地方の野球試合とをいっしょにするなと、お叱りをうけてしまいそうですが、それでも和気あいあいとしたこのムードがいいです。
「アマチュアではないので、勝つことだけが目標ではありません。プロとして自分がどういうプレイをするかが大事です」というイチロー選手の発言を思い起こします。その彼はこうも言っています。「まず手の届く目標を立て、ひとつひとつクリアしていけば、最初は手が届かないと思っていた目標にもやがて手が届くようになるということですね」と。

選手たちは、まるで魂のかけらでも丸めたものをやりとりしているかのよう。各塁の守りびとたちの手を渡り歩いて、ぬくもりが重ねられた白球を、投手は捕手のミットへ送り届ける。野球とは本来、そういう作業なのかもしれないと思うのです。してみれば、打者とはいわば相手方の掌のなかを行き来し廻りあっている想いを、無惨に外側へ弾き飛ばしてしまう闖入者なのかもしれません。

ところで、私はナインのなかで、いちばん好きなポジションはと聞かれたら、キャッチャーと答えます。
白線でしきられたダイヤモンドのなかでは、一段と高いところに立つピッチャーの活躍ばかりが華々しく騒がれるのはいつものこと。そこはいわば四つのベースがかたちづくるマウンドを頂点としたピラミッド。しかし、ほんとうにゲームを支配しているのは、その四点のひとつにしか過ぎない、しかもいちばん低い位置に据えられているキャッチャーではないでしょうか。

彼は視界の悪い仮面をかぶり、身をしばる防具をまとって、いつも腰を落とした不自由な体勢で待ち構えなければならない。目前には乱暴にバットを振り回す敵打者がいて、すぐ後ろには小うるさい審判が目を光らせている。彼のワーキングスペースは、他にくらべればはるかに限られていて、うかつに身動きできない。動きはピッチャーの投げる球に従わなければならないから。しかもキャッチャーには、華麗なフォームで球をうけとめるという見せ場はありません。とても地味な仕事です。試合が始まってしまえば投手と戯れの送球に興じるなんてことはできません。彼のミットへ放りこまれる球は、つねに真剣勝負球でなければいけないので。
つねに腰が痛くなるような座し方で、彼はいちばん冷静に、大きく、高く、世界を見ることを学んでいる。

大リーグに渡るのはたいてい剛腕のピッチャーか、強打者が多いようですし、年棒が多いのも、よく打ってよく投げる者に限られてきます。これは「見せる」野球なので、あたりまえのことです。しかし、私は勝利投手の影にはつねに、彼の制球を支えた辛抱強い勝利捕手がいたと思います。キャッチャーの仕事というのは、もっと評価されてもいいと。

ところで外来の野球用語を日本語に訳し、普及に努めたのが俳人正岡子規であることはよく知られています。「ベースボール」を最初に「野球」と翻訳したのは我が国初の本格的野球専門書を著した中馬庚(ちゅうまん・かなえ)ですが、これとは無関係に「野球」という言葉自体を発案したのは子規。自分の幼名の「升(のぼる)」から「野球(のぼーる)」という雅号をもちいたのです。
その彼のポジションは捕手だったそう。会話のキャッチボールなんて言い回しもあるけれど、ボールを受け止める行為と、相手の話しを聞く行為はよく似ています。「捕手」は「保守」に通じていて、日本語化された当初から投げる者の優位性は定められていたような気がします。”The Catcher in the Rye ”とあるように、原義で「キャッチャー」というのは、来るものをうけとめるだけじゃなくて、能動的につかむといった意味合いのほうが大きく感じられるのですが、日本風土になじむにつれて受け身にされてしまったのでしょうか。いずれにせよ、他人様のお話に粘りづよく耳を傾けるというのはひどく骨折り仕事でして、やはり十分にこころに防具でもつけて、どのような死球や暴投にも耐えられるように鍛えておくべきなのでしょう。

しかし、あいかわらず言葉が投げっぱなしな管理人です。
うまく言葉をうけとめられるキャッチャーこそが、真にいい言葉を投げることのできるピッチャーなんだなって思いますね。(嘆息)


【ネタのタネ】


【附記】
この記事は〇七年八月二十九日付け掲載分を、加筆修正して再投稿いたしました。


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