陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

死にたがるひとを死なせてあげることは罪なのか

2020-10-19 | 医療・健康・食品衛生・福祉

まず先にお断りしておきます。
今回の記事タイトルの答えは、私のなかにすでにあります。
法律にのっとれば、確実にアウトです。でも、感情としては、その理屈でおさえらえるだろうか。そんな逡巡を書き残したものです。

座間市の事件の公判がはじまるとの報道がありました。
希死念慮のある若者複数名をSNSで募集し、自宅で殺害したという陰惨な事件。容疑者男性は、亡きがらを冒涜する手口もさることながら、あきらかに強盗殺人や女性をふみにじる性犯罪であり、とても自殺ほう助とはいえない。精神鑑定でも異常は見られず。しかし、被害者が「死を望んだ」かの意思の有無が量刑の判断とされそうです。

また、少し前には。
医師を名乗る男性が、難病に苦しむ女性を薬物投与で死なせた事件もありました。安楽死として大目にみるべきなのか。罪状は嘱託殺人罪。この医師二名はほかにも難病患者が海外の自殺ほう助をうけるための診断書を偽造した罪でも再逮捕されています。

スイスでは安楽死を望む外国人の入国が増えており、批判が増えているとか。
医師の薬物投与による「医療行為」とみなされ、その条件としては「回復の見込みがない」「明確な意思表示がある」こと等厳密な審査が必要。しかし、自筆署名もできない難病患者がはたして、自己の意思を示せるのかは疑問の余地があります。

座間市の場合は事件だが、後者は事故。そんな切り分けもできそうです。
しかし、問題の本質は同じです。

死にたがるひとを死なせてあげることは罪なのか?
ノーといえるのは、自分の暮らしが充実しているからでしょうか。イエスと言ってしまえるのは、死刑判決に臨む裁判員のように、他人の生死を握ることに優越感を覚えるからでしょうか。

座間市の事件では、複数人の自殺志願者を募ったSNSでの出会いをくりかえしつつも、あやうく一命をとりとめたひともいます。生き延びたのは運がよかったから? 何とも言えません。

死にたいと思ったときに道連れが欲しいのは、なぜなのでしょう。
とくに女性はそうですね。共感の連鎖の生きものですし。

数年前、プライベートで精神科医の男性とお話したことがあります。
やはりこころを病んだ患者の相手をすると、かなり重荷になるということでした。ミイラ取りがミイラになる。俗にいうエナジーバンパイアです。危機能力が鋭いひとは振り切れますが、お人よしな人は愚痴に付き合ってひきずられてしまいます。私も、家庭問題で延々とメールを送り付けるひとを疎遠にしたばかりです。他人の闇を支えるのは用意ではありません。芥川の蜘蛛の糸のように自分だけが幸せになろうとすることに罪悪感がある。他人を不幸にしたり負の感情を浴びせても、何も解決しない。

結論から言いますと、自分で死のうが、誰かに死なせてもらおうが、何も変わりません。自分でピリオドを打つことで、最後に大きな選択をした気分になんりますが、そもそもそんな死に至らしめられるところまで追いつめられること自体が、もはや他人に振り回されています。

死にたいという意思をもったひとと、死なせてあげる行為者との口約束。
時ならぬ合意。それは、民法上の契約なのでしょうか? そんなはずがありません。傷病を治癒すべき医師ですら、あなたのからだを自由にしていいはずはないのです。親が子供の人生を、夫が妻の生き方を(あるいはその逆でもいいが)自分の思うがまましていいわけではないのと同じで。人権とは、人間らしく生きる権利であり、そのなかには最期まで生活の質高く生き抜くことも当然ながら含まれているのです。

苦楽から逃げるならば、生きたまま逃げましょう。
他人に生殺与奪の権利を握らせることは、あなたみずから人間らしさや尊厳を失うことになります。

そして、逃げた人に対して追い詰めて傷口に塩を塗るようなこともやめましょう。もちろん非難に値する行為は責めがないわけではありませんが、たとえば、会社で過労死寸前の過重労働をした人間が、正常な判断力を失うのはあたりまえのことです。産後うつもしかりで、他人と暮らす結婚でさえもストレスになります。日本は恋人や家族がいること、美しく強くあるべきであること、働くことはは幸せの証──という呪縛が強すぎて、そこから漏れたひとへのメンタルケアが足りていません。

死ぬのは一瞬でできます。
けれども、そのあとにある、会えるひとや、楽しいことや、自分が成長できたかもしれない姿──そうしたもろもろの希望を犠牲にしてまで、あなたは死を選ぶべきなのでしょうか。華々しく死を選べば、あなたの人生は美しくなるのでしょうか。それは、違います。

子どもの頃から親族の葬式を何度も経験し、身内の過労死の労災請求書まで作成し、金銭苦で学問の将来を閉ざし、ままならない人生を生きている私でも、毎年、この秋がくるたびに生きていてよかったな、とか、今年はあれをやろうとか、考えてわくわくしています。それが、誰の目にも下らないことであろうとも。







この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 漫画『ベルサイユのばら』 | TOP | Excelを使いこなせたら、あな... »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 医療・健康・食品衛生・福祉