風呂あがりのせいだろうか。浮力から解放されたからだで出歩くのは、皮膚に粘土をすりこんだようなうとましさがあった。風のなかに細かな砂粒がまじっているのか、ざらついた感触がすり抜けていく。
切り立った崖の上にひろがる見晴らしのよいその場所は、ノーヴェ・ナカジマの野営地だった。
一人用のテントが張られ、中には数日間滞在するにはじゅうぶんな携帯食料や衣類があった。折りたたみ式の椅子を置き、トーマをそこへ座らせた。
焚き火の跡が黒ずんで残る地面があった。
ノーヴェがふたたび火を起こし、底が焦げるまでじっくり使い込んだ薬缶を沸かした。
無造作にカップに粉を放り込んだようなインスタントコーヒーの味は苦く、けっしておいしいものではなかった。まずくて飲めた代物でない。文句のぐうの音も出ない。しかし、湯冷めしそうなからだがほっこりと温まってきた。
「ノーヴェ姉は、あの黒い海を見張ってるのか?」
「あたしが所属してる民間の遭難救助対策協議会からの派遣でな。税金でちんたら動く管理局の湾岸救助隊と違って、こっちはきっちり有料だからな。かなり実入りのいいバイトさ。ここに宿泊してる実費も払ってくれるし、24時間態勢で見張れば夜間手当もつく。これで、捜索者が出てくれりゃ、いつもの宅配バイトの五倍は楽に稼げるな」
例のまずいコーヒーを熱さをものともせずに啜りあげたノーヴェは、ほくほく顔だった。
そのあっけからんとした様子にトーマの嫌悪感がますます募った。
「それじゃまるで、遭難者が出るのを手ぐすねひいて待ってるみたいじゃないか」
「ま、気長な釣りに来たようなもんだな。思いがけず釣れたのは、知り合いの小僧だったけどな」
湯気に顔を曇らせているトーマに向けて、ノーヴェがにたりと笑う。
夜半にも目立つほどノーヴェのぎらついたまなざしは、あの黒い海の広がりに注がれている。
彼女のあのどぎつい瞳の輝きは、狩人の目だった。海に糸を垂らし、網を張って、溺れて弱りかけた人間がひっかかるのを、いまかいまかと待ちうけているのだ。
「命を守る側の人間が、人の不幸を望んでいいのかよ」
「こっちだって、別に望んじゃいない。起きるとしても、万が一にも可能性は1パーセントだ。99パーセントは起こらないに賭けている。どっちにしろ、何かが起こるとも限らないのに出かけない奴はいねぇだろ。あそこは海底油田の爆発事故がおきてから、周辺の海域が冷凍処理されて、うかつに潜れないようにされてるんだ。起きるわけないが、万一ってこともあるしな。禁止区域だってのに、わざと泳ぎにきたがるバカもいる。それを想定して、見張ってるわけだ。今までにないタイプの環境だからな、どう攻めるか考えてみるのもいい経験になる」
ノーヴェはぼろぼろになった手帳を開いて、何かを書き付けていた。そこには、この場所の地理や、天候、時間帯による海の状況が観察され、事細かに記録されていた。
「その期待してるような言い方…俺、むかつく」
「仮に事故が起こったとしても、半分は被害者の自己責任だろ」
「どうして、管理局の救助隊が派遣されないんだよ」
苛立ち気味に地面を蹴りながら、トーマが口を尖らせた。
「なんだ、お前。あたしが来たのが気に入らないのか?」
「…そうじゃない」
「いんや、嘘だな。お前の言いたいことをあててやろうか。どうして、スゥちゃんが来てくれないの?…だろ」
ノーヴェがおどけて幼児のような甘ったるい喋り方をする。
トーマがカッッとなって立ち上がった拍子に、コップの中身が転がり、椅子が後ろへぶざまに倒れた。熱いコーヒーを被らぬようにと、スティードが宙に身をひねった。