陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

仏の前で泣いても笑っても

2024-12-29 | 教育・資格・学問・子ども

「マリア様がみてる」という百合ノベルには、ミッション系女子高に通う主人公たちが毎回、登校するとかならず正門ちかくにあるマリア像の前でお祈りをするシーンがでてくる。
そこに人が溜まるので、交流の場にもなったり、あるいはこの学園のシステムでもある姉妹(スール)の授受の儀式の舞台にもなったりする。近所の稲荷神社に油揚げをお供えする、あるいは故人の骨壺をめぐってひと悶着というエピソードも出てくるので、作者はこうした寺社仏閣への礼拝行為が日常に根付いた暮らしを送った人なのだろう。こうした場面の奥ゆかしさを中年になって読み返すまで、うかつにも、あまり気づかなかった。ありきたりだが、大事なことでもあるのに。

我が家は私と同居人と二軒分のお墓を管理している。
このお墓は宗派も異なり、霊園も距離が離れているので、お参りするのにもいささか時間がかかる。まだ同県内だからマシなほうではあるが。

数年来、同居人の家を墓じまいして、私の家の方に改宗するかという計画がもちあがったのだが。私の腫瘍が見つかって検査入院や仕事上のトラブルなどがあって頓挫したままになっている。

そうこうするうちに、今度は同居人の健康状態も悪化したため、現在はほぼ空き家の管理もふくめて、ほぼ私がひとりでお墓参りを行うようになっている。

空き家には私の家系の古い立派な仏壇があるが、年々、このお供えものにも悩んでしまう。
時間のある時は週に一度は炊き立ての白飯や新鮮な果物、豊富な菓子などを届けていたものだが。ここ近年は物価の高騰で難しくなった。

果物は高いうえ、夏場に傷みやすいので、クーラー内蔵で車で運んでいるうちにも腐敗が進んでしまう。
なので、缶詰や水ようかんなどの一年以上日持ちがするお菓子にせざるをえなくなった。

ご飯も毎日炊かないので、冷凍ご飯を解凍したり、あるいはカップ麺で代用するようになった。カップ麺は個人が好きならOKらしいのだが、なんとも見栄えが悪い。

大河ドラマにでてくるような上質な高坏や盛り器が仏壇にはあるのに、お膳のようなセットもあるのに、それにふさわしい供えを今は用意できていない。かつて、この家の二代も三代も前の住民は生前に、朝早くからご飯をたいて、煮物も汁もつくり、生真面目にお供えをしていたのだろう。自分たちが口をつけるよりも先に。それが日本人の信仰心というものだった。

お墓周りについても、同じで省エネ気味だ。
線香は「香喰(こうじき)」として先祖への食べものになると言い伝えられている。しかし、風が強い日には着火できず、室内でも壁が黒くなる、火のもとが危ないといった理由でだんだん線香を焚くのを控えるようになってしまった。数年前にお墓を改葬したときにも、業者に、線香の灰を残しておくと石が傷みやすくので、あまり多く線香を入れなくてもよいと教わったせいもあるのだろう。

空き家まわりの対策、雑草処理だとかゴミ拾いだとか庭畑の手入れだとかに気を奪われがちで、どうしても先祖供養はおろそかになる。仕事が忙しい、家族間に問題が生じたりもするとなおさらだ。

最近はお墓も造花にかえて、松葉や樒(しきみ)すらも自家栽培のものが枯れていくので、しかたなく百均の人工性のものをあつらえた。
周囲のお墓を見渡すと、やはり、同じようにしているご家庭が増えている。造花にすれば活け替えるコストも時間も節約できる。緑のままでみずみずしく見える。落ち葉を拾って掃除しなくてもよい。しかし、その分、お墓から気持ちが離れていってしまうのだろう。

菩提寺の霊園も、お墓の移動が多いのか、ずいぶんと空きが目立つようになった。

同居人はお墓を人工生け花にしたことで水替えもせず、負担が減ったと安堵していたのだが。逆にこうした面倒くさいが減ったことで、自分たちが習慣として根付かせてきた信仰心が揺らいでいくのではないか、そんな恐れがどこかにある。

お墓や仏壇に手を合わせるときも、気分が晴れない。
自分が食べていくのがせいいっぱい、ご先祖様は後回し。失礼ながらそんなわがままが頭をもたげてくる。喉がしんどいので般若心経の読経も五回基本が一回だけになったりもする。欲しいものも趣味で買いたいものもたくさん我慢して、医療費はかかり、税金は重いし、家の修繕費の積み立ても必要で、そういやパソコンも買い替えなきゃいけないのにな…などもろもろ申し訳なさで情けなくなりがら仏前供養をおこなっているのだ。こんな思考回路のままでは人生も好転しはしないだろう。

しかし、近頃は、ただ仏前で座って手を合わせていられる時間がある。
贅沢できているわけではないが、食えるのには困っておらず、寒さをしのげる家もある。ただそれだけでも幸せなのだと思うようにした。瞑想だの、悟りを開いているだのではないが、こうした無の境地でいられる時間も人生には必要なのかもしれないと。



(2024.10.30)




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