陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

さらば合格掲示板

2008-03-16 | 教育・資格・学問・子ども


四月から新しい人生をスタートさせる皆さま、おめでとう!おめでとう!
今日の日の栄光は、数年来のあなたが耐えてきた我慢によって支えられています。その春の訪れがどんなにささやかなものであっても、あなたはそれを誇りにしていい。


国立大学の前期試験の合格発表がはじまっています。
私も今さらながらに十年前のことをなつかしく思い返しています。センター試験の英語のしくじりのために、急きょ選んだ受験先。赤本が入手できず、県内のあちこちの書店を巡りました。小論文の訓練もわずか一箇月でやり過ごしたのです。実質受験倍率が七倍という不安こそあれ、本番はかなり楽しめたのです。問題がおもしろくて。こういう出題をする教官がいるなら、きっと講義もおもしろそうだ、そうに違いない。もしその年落ちても来年も再挑戦しようと思いつつ、後期試験の受験先の課題である石膏デッサンの練習のためだけに高校の美術室に通う日々でした。
あの合格発表をみたとき、長い長い十代の冬のトンネルを抜けて、やっと春の国にたどりついたのだと思っていました。


…などという、どうでもいい自分がたりはさておき、本題。

その合格掲示板が、近年、各大学で消える傾向にあると聞きます。私立ではほぼ皆無、国立でも減少気味で、ゆいいつ、東大だけがこの伝統をまもっている模様。 
携帯サイトや大学のホームページでの発表が増えると受験者がわざわざ見に来なくなったこと、および掲示板の設置に手間と経費がかかるとの理由で廃止する動きなのです。 

不合格の学生にとっては落胆した表情をみられなくともすむという利点はあります。そして、いちはやく次の受験先に気持ちを切り替えることもできます。おそらく私立を何校も滑り止めに受験した方なら、そのほうが都合がいいでしょう。(筆者はこれまで私立の受験経験がないので、このあたりの事情がわかりません)
が、合格者にとってはどうでしょう。やはり人生そうなんどもない喜びの風景。掲示板の前で自分の受験番号とともに記念撮影したり、友人と肩を叩きあったり、歓喜の抱擁をしたり、そしてまた胴上げをしたり。そういう晴れ晴れしいイベントの状景がみられなくというのは、なんとも寂しいことですね。 

この合格発表を見にきて、お互い見ず知らずの街の者どうしが意気投合した例なんてのもあるでしょう。派手な扮装をした先輩方にお祝いされるというのも嬉しかった。これからこの新しき門をくぐり、その掲示板を毎日眺めて歩きながら、学び舎へと足を運ぶ。そういう新しい自分を想像して,喜びにうちふるえたものです。 

合格発表の風景というのは、たいがいその学校の卒業アルバムに収められますね。掲示板のまえにとりどりの制服で集って映された幼い笑顔と、卒業前のみなおなじ詰め襟やセーラー服を着てしゃちこばった大人顔とを比べると、なんとも気恥ずかしい笑みがこぼれます。
またそれは、入学式・卒業式などと同様、写真部の格好の取材ネタ。文化祭で写真部の展示パネルに自分の歓喜に湧く笑顔が飾られていたり、学内の広報に残されていたりしたら、嬉しくありませんか?


合格の吉報が、電子上の数字の羅列でのみ知らされるというのであれば、なんとも悲しく、味気ない。学業に要した努力の重みもうしなわれ、至難をのりこえた誇りすらも軽く感じられる気がいたします。そう思うのは私だけなのでしょうか。
さらにいえば、このサイトでの告知が果たしてちゃんと機能するとは限りません。もしなんらかの手違いで合格者番号が抜けていればどうするのでしょう。もちろん合格者には、合格通知が送られるわけですから、ことさらに騒がなくてもよいのかもしれませんけれども。



いまの電子情報で伝えるしくみは、早く、多く、軽く、ではすぐれてはいるけれど。それはひととひととの生々しい接触が薄れていると感じています。 すでに使いふるされたアナログ愛好警世家の言い分ではありますが。
むかしは、原稿を直接もちこむ、もしくは編集出版側がとりにくるのが常であったのが、いまやPDFで入稿、編集はあたりまえ。せいぜい指示をだされるにしても電話かファックスを通じて。ずっと顔の見えない相手と仕事をすることにもなる。

クリック一つで通える巨大な知が集積されるいっぽうで、実体の集いの場がどんどん削られていくのです。あたりまえですね。我が身はひとつ、同時に複数の場所には存在しえなかったのに、いまやあちこちに顔出し口出しざんまい。それはどこにも身の置きどころのないふわふわした雲のような人格をうみだしています。

つながる、ひろがる、は携帯端末やソーシャル・ネットワーキング・システムの謳い文句。が、しかし、ほんとうに必要なのは、「つながる」なのか?それとも「集う」なのか?
「集う」には、数の権力でその場の磁力をつよめ主宰者の支配力をたかめる独裁制が感じられもする。そして、集ってはいてもけっしてつながってなどいない。いましも取り沙汰される学級崩壊や、成人式で静聴できない若者がいい例です。同席した隣人は赤の他人。そう感じたとき、ひとはその人だかりの場から離れざるをえないでしょう。
ウェブワールドもそうかもしれない。多くの電子上の掲示板はすたれていってしまう。なぜならその管理人の名のもとに集まる人びとは、横のつながりを求めていないのかもしれない。

合格を知らせる掲示板の衰退は、しきたりのお祝い風景の終焉を意味しています。それは、おめでとうのギフトが減ることをも意味しています。
あの日あのとき、掲示板の数字に自分をみつけてにんまりと笑った自分を、名前も知らぬ誰かが見つけてくれていた。それはとてもすてきなことではありませんか。人びとが靴の裏に土が張りつく間もなくせかせかと歩いてゆく街角で、忘れられたように催しを教えている町内掲示板のポスターに、静かないとおしさを覚えてしまうように。




【関連記事】
消えゆく合格掲示板 ネットで速報の大学増える(アサヒ・コム 〇八年三月七日)


(〇八年三月八日 起草)



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