最近の創作物で、しばしば、遺伝子がひきあわせた、あるいは、遺伝子を裏切って、などという表現を目にすることがある。要するに運命の相手という言い回しを科学に裏付けて言い換えたようなものだが、しかし、なんとなく味気ない。なんとも他人行儀ないいかたである。人生の選択に個人の意志決定はないのだろうか。だとしたら「私」とははたしてどんな存在であるのか。「私」とやらは、電子顕微鏡でしか見えない小さな存在に左右されているのか。生殖のことだけ考えて人は恋するものでもないし、コトに至るあいだに細胞分裂のぐあいはいかがか、などとミクロなことに思いいたったりはしない。人間、いやひいては生物全般が自己の利殖に走るようにプログラムされているのは、優秀な子孫を残し種を繁栄させていくためである。そのことは否定しないだろう。そのためならば、他の種族を滅ぼすことだって辞さない。強い者が生き残るためには、弱者は淘汰される必要がある。それは生物の進化が求める必然なのだろうか。
利己的な遺伝子 <増補新装版> | |
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『利己的な遺伝子』(原題は The Selfish Gene )は、英国の科学者リチャード・ドーキンスが1970年代に発表し、センセーションを引き起こした科学入門書。理系ならではの数式を用いた小難しい説明もあるが、おおよそは一般向けにやさしく書かれたもので読みやすい。遺伝子と聞くと、ナノミクロレベルの目に見えない抽象的な世界のことのように思われがちだが、本書にあがる例は、親しみやすい生きもののことがほとんであるので理解しやすかろう。ドーキンス自身もこれは「動物の行動についての本である」とまえがきで明言しているほどに。
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書籍『利己的な遺伝子』(後)
「育ちそこねた子どもは回復できない時点に達しないうちは、彼は不断の努力をつづけるべきである。しかし、そこに達したら、彼はただちに努力を放棄せねばならない」?!──この言葉は、むやみやたらな弱肉強食論ではない。個体の生存をかけた遺伝子淘汰は、種の保存を願う道徳的行為と反目しあわないものである。