陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「偶像の下描き」(三)

2010-12-30 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女


前からあたためていた秘蔵のネタを、いつか描きたいと思ったことはあった。
けれど、そのためには何かが足りなかった。もはや十代の頃の感性とやらに頼らずに構想を推し進めるには、私には経験が不足したのだ。原稿料をもらっているからといって、いっぱしの労働者を気どったところで何になろう。貴重な十代を紙とインクのモノクロの二次元にだけ費やし、ちやほやとされ、能力にうぬぼれ、ろくすっぽ社会の酸いも甘いも噛みしめずにきたせいで、私はいまだに安っぽい中高生のドラマしか生み出せないのだ。

時おり、しがない妄想が切れ切れに浮かぶ。
それらは窪んだ道路に出没した水たまりのように、頭のなかで、点々と浮かび上がっているのだ。後もう少しその中身が貪欲な生きる意志を備えた細胞のように増殖しさえすれば、お互いに輪郭を結びあい、中身を撹拌したようかのようにうまく通じあい、一個の整然とした物語としてたくましく動き出すだろう。そのとき、私の物語は読者の胸を轟かせるぐらいに押し寄せては、引き際を知っていたかのようにあっけなく退散してみせる、あたかも豊穣な海のような役目を果たすことだろう。もうひと雨、潤いのある想像力が私のからだに流れてくれば。

だが、水たまりは一年経とうとも二年経とうとも、いっかな大きくはならない。
油を投じた水滴のごとく、妄想の雫は触れようとすればするほど、砕け散って収まりがつかなくなってしまう。ひとつひとつは鏡のように別世界の入口となっている水たまりが結びあうことがありさえすれば、私の物語は読者の魂にぐさりとさし込んで感情をえぐりだしてしまえるほどの、奥行きの深いものとなれるに違いない。違いないのだ。なのに。

現実は厳しい。
作戦を練るのと軍隊を動かすのとはまったくの別ものであるように、頭のなかでは傑作と信じて疑わない下書きは、いざ原稿に現れてみればなんとお粗末なできばえであったことだろう。濡らし髪をきっちりと切りそろえたはずなのに、いざ乾かしてみれば、毛先ががたがたと不揃いで足りなさすぎるといった具合に、当てが外れてしまうものだ。

夜中にきんきんに目が冴えていきおい描いたものは、朝になるとたいがい焼却炉に放り込みたくなるものばかりだ。
ものを描きあげたときに私はいい仕事をしたという心地よい疲労感に酔いしれる自分を、ことごとく追い出さねばならない。出来高はすでに、それがインクをともなって形に現れたときに取り決められているのだ。私の妄想は私が描いているものには収まりきらない。この告白は傲慢だろうか。いいや、そうではあるまい。人間の脳は無数の情報を処理しているはずだが、それを記して残す能力ときたらあまりにおそまつなものだ。

なに過つことなく堂々と語れるほどの作品を、私は世に送り出してはこなかった。
代表作と呼ばれるものさえ、手すさびに描いた作品群にすぎない。中途半端に干上がることもないその妄想の断片に、うっかり突っ込んでしまったばかりに、まるで年がら年中、水の入った長靴を履いて行進しているかのように身持ちの悪い足取りで人生を進んでいくのが、せいぜい関の山だ。

すでに光りの乏しい太陽を退けてしまった空は、重そうな雲をたっぷりと寄せ集めていた。
節操もなく筆洗いをしてしまったために濁った洗い油のように、眠そうな空だ。いまにも降りそうな気配だった。
マンションまで走っていけばなんとかなる。けれど急いで帰りたくはなかった。帰れば原稿台に向かって、ペンだけ滑らせる孤独な作業が待っている。



【目次】神無月の巫女二次創作小説「ミス・レイン・レイン」






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