15:25 from web
支援学校という知的障害・発達障害の支援を教育の根幹としている施設で感じる虚しさ・白々しさを障害児の一保護者として味わいました。本来の息子の人格・姿を知ることもなく、知ろうとの意思すらも持たない支援学校高等部の教員達が多いのです。→
15:26 from web
勿論、支援学校の教員の中にも、担任の先生を始め、親身に話を聞いて、励まして、応援してくださる先生方も何人かは存在しています。しかし、全般的な評価を下すならば障害を抱える生徒を支援をする際の基本が欠落していると言わざるを得ないのです。→
15:30 from web
彼らは、支援学校のスケジュールを支障なくこなす為には、障害がある子の困難を抱えた生き難さを自らの手を差し出して、スムーズに円滑に所定の場所まで導き連れて行くことが支援だと誤解しているのです。連れて行くというよりも寧ろ運搬すると言うような光景すら何度か目撃しています。→
15:32 from web [ 1 RT ]
何故、障害を抱えた子供達がこの場所でフリーズして、パニックになり、立ち止まり足踏みをしているのかの原因を解明して以前の様な明るい足取りで歩めるように共に試行錯誤をしながらも、手間隙を惜しまずに掛けて、例えスケジュールに穴が開いたとしても粘り強く困難を取り除いて行く行程が支援です。
15:34 from web [ 5 RT ]
困難を一層の困難にする原因は当事者の側に在るのではなくて支援する側の無自覚・鈍感さにこそ在るのだと私は言つています。Education(教育)とは子供達に与えられ内在している可能性を引き出すことです。何処かに困難を抱えていても、工夫次第で力を引き出せる方法・ルートがある筈です。
15:38 from web [ 1 RT ]
もしも、現在は困難を抱えている生徒が何かの原因でバランスを崩して、行動の仕方が壊れていても、以前の溌剌とした姿を実際に知らなくても、見ていなくても、以前の彼らを知っている小・中学部の関係者から情報・ヒントを得られる筈です。当然の努力を惜しむ人の支援は唯の自己満足な迷惑行為です。
16:28 from web
健常・普通で有ると言う事は、生存に環境に適度に順応する為に鈍い能力を維持することなのです。視力・聴力が100倍優れていてウィルス、細菌まで見えたり、周囲の音の微細なものまで全てを聞き取れる能力は精神的に異状をきたすのです。
16:31 from web
例えば、ある状況(サバンナの狩猟生活)での耐性を比較すれば現代人は耐性が無いのです。この環境では行動が出来ない無能力者の烙印が捺されます。視力6.0以上の人間が耐性があるわけです。逆に私達の社会では視力10.0以上の驚異的な視力の持ち主はは生活上障害者になるのです。→
16:33 from web
→恐らく生活上破綻をきたしたり、精神に異状をきたすでしょう。障害とはある種の能力の極端な発現の場合も有るのです。例えば、絶対音感は乳児期には誰にでもありますが、生活の快適さを優先するから多数は排除します。排除するとは大抵はその様な能力を喪うということです。
16:37 from web
2,3歳児の訓練で絶対音感を獲得するのではなくて維持して身体感覚に定着させるのです。音楽家の家系に絶対音感者が多いのはDNAがそうさせるのではなく環境がそうさせているのです。偶々音楽的才能が尊重される社会の場合には価値ですが‥→
16:42 from web
→幼児期、少年期に絶対音感を無能力化するプログラムが人の発達段階に組み込まれている以上絶対音感の保持は皮肉な見方をすれば障害なのです。障害とは所詮多数派の鈍さ、価値創造のご都合主義の産物に過ぎないのではないでしょうか?
16:44 from web [ 1 RT ]
天才・障害は同じものなのだと私は考えています。才能は場合に拠っては障害と扱われ、その逆も有り得る訳です。全ては健常とされる側の行動規範の都合・多数者の行動様式の習慣の問題で決定されるのです。絶対音感は文化的な多数者の価値観で、→
16:45 from web [ 2 RT ]
→ある場合には才能、ある場合では行動に影響してマイナスに評価されれば障害にだって扱われます。才能はその人の置かれた状況で心楽しい輝きにも、辛く悲しい苦悩の素になることもあるのです。心の裕さ、人間性の明るさがその2つの扉のどちらかを開ける鍵なのは言うまでも有りません。
17:21 from Twitpic
息子のカタトニア歩行は高1終了間際の時期に苛めと併行して発現。自閉っ子の典型的な歩行と言われても、それ以前の17年間は皆無な歩行様式。私は発達障害者の身体に起因するのではなくて、学校の環境ストレス起因の歩行だと考えています。 twitpic.com/an2p4d![](http://twitpic.com/show/thumb/an2p4d)
19:53 from jigtwi for Android
私は学校文化の弊害だと思います。偶々その時には縁がなかった苦手なこて出来なかったことは状況が変わると→RT @MiMi64423854: 「苦手」、「出来ない」をあってはならないとし頑張らされるのは学校文化の弊害なのか、日本文化が持っているものなのか? わたしの問いです。
19:59 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →積極的に学びたい、出来る様になりたいに成ります。私は52歳迄自転車に乗れませんでした(笑)何度練習しても無理でした!私にはモチベーションがなくて周囲の勧めでした。大学時代もバイトの関係でキャンパスで練習させられました。無理でした。→
20:05 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →しかし、息子が小2で先に自転車をマスターして、数キロ先の駅前に自転車で出掛ける後ろ姿を茫然と見送った経験に奮起して自転車の練習をしたら僅か数分後には乗れていました。他人の眼差し、評価、指示が行動を後押しする場合とモチベーションを下げる場合が有ります→
20:12 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →学校の周囲に合わせて君も自転車に乗れる様になろう式のスキルアップ指導が逆にある子どものモチベーションを下げる場合もあるのです。私の場合には絵、体育の評価は五段階評価で1ないし2でした。今になって思うと苦手のままで構わなかったのです。→
20:22 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →絵は独りで描きたかった!体育は元気を無理に強制されることの抵抗の時間でした(笑)体育の授業で身に付いたのは周囲に合わせない性格、潔く1 ないし2の評価をもらって置くと言う度胸の様です(笑)更に、子どもを教える立場になった時に財産に為りました→
20:30 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 苦手、不得意な生徒の気持ちが分かり苦手、不得意に寛容な教師で有り得たことです(笑)更に親になってからは、子どもに理不尽な励ましや成績評価、勉学の遅れに全く動じないおおらかな父親になれたのは学校体育授業が反面教師だったお蔭だと思っています。
20:39 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →出来ないことは出来ないし、それをすることが自分の能力を逆に下げる場合には自己主張する大切さを経験したのはノートの書写でした。私はノートを書写すると授業に集中出来ないので、思いきって相談しました。教師が熱弁して板書し忘れる難問を→
20:46 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →何時も正答する生徒が私だった秘密がノートではなくて教科書の欄外のメモだと気付いた教師は私だけにはノート提出もノート取は免除してくれました。大学時代もノートは一度も取ったことは有りません。周囲と同じことが出来ない子どもを出来る様にすることは→
20:53 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →場合によっては才能を引き出すことではなくて才能の芽を摘み取ることになり得るのです。自分のやり易さは相手の困難さを増すことになることを理解しない教育はある意味では精神的な苦痛、精神的な虐待行為だと思います!
21:16 from Plume?for?Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 私の場合にはノート取りが記憶の混乱要因で、無器用だったことが逆に記憶力強化に繋がり授業は集中して聴くもので、記憶に自信の持てない事項は教科書に書き込みむこの方法を皆に勧めるのは問題です(笑)各自の身体精神的特性に合った其々の工夫を考えて欲しいのです!
21:19 from Plume?for?Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →画一的な学習方法を指導する学校教育文化は確実に滅びの道を辿っていると思います!
by yosh0316 on Twitter
支援学校という知的障害・発達障害の支援を教育の根幹としている施設で感じる虚しさ・白々しさを障害児の一保護者として味わいました。本来の息子の人格・姿を知ることもなく、知ろうとの意思すらも持たない支援学校高等部の教員達が多いのです。→
15:26 from web
勿論、支援学校の教員の中にも、担任の先生を始め、親身に話を聞いて、励まして、応援してくださる先生方も何人かは存在しています。しかし、全般的な評価を下すならば障害を抱える生徒を支援をする際の基本が欠落していると言わざるを得ないのです。→
15:30 from web
彼らは、支援学校のスケジュールを支障なくこなす為には、障害がある子の困難を抱えた生き難さを自らの手を差し出して、スムーズに円滑に所定の場所まで導き連れて行くことが支援だと誤解しているのです。連れて行くというよりも寧ろ運搬すると言うような光景すら何度か目撃しています。→
15:32 from web [ 1 RT ]
何故、障害を抱えた子供達がこの場所でフリーズして、パニックになり、立ち止まり足踏みをしているのかの原因を解明して以前の様な明るい足取りで歩めるように共に試行錯誤をしながらも、手間隙を惜しまずに掛けて、例えスケジュールに穴が開いたとしても粘り強く困難を取り除いて行く行程が支援です。
15:34 from web [ 5 RT ]
困難を一層の困難にする原因は当事者の側に在るのではなくて支援する側の無自覚・鈍感さにこそ在るのだと私は言つています。Education(教育)とは子供達に与えられ内在している可能性を引き出すことです。何処かに困難を抱えていても、工夫次第で力を引き出せる方法・ルートがある筈です。
15:38 from web [ 1 RT ]
もしも、現在は困難を抱えている生徒が何かの原因でバランスを崩して、行動の仕方が壊れていても、以前の溌剌とした姿を実際に知らなくても、見ていなくても、以前の彼らを知っている小・中学部の関係者から情報・ヒントを得られる筈です。当然の努力を惜しむ人の支援は唯の自己満足な迷惑行為です。
16:28 from web
健常・普通で有ると言う事は、生存に環境に適度に順応する為に鈍い能力を維持することなのです。視力・聴力が100倍優れていてウィルス、細菌まで見えたり、周囲の音の微細なものまで全てを聞き取れる能力は精神的に異状をきたすのです。
16:31 from web
例えば、ある状況(サバンナの狩猟生活)での耐性を比較すれば現代人は耐性が無いのです。この環境では行動が出来ない無能力者の烙印が捺されます。視力6.0以上の人間が耐性があるわけです。逆に私達の社会では視力10.0以上の驚異的な視力の持ち主はは生活上障害者になるのです。→
16:33 from web
→恐らく生活上破綻をきたしたり、精神に異状をきたすでしょう。障害とはある種の能力の極端な発現の場合も有るのです。例えば、絶対音感は乳児期には誰にでもありますが、生活の快適さを優先するから多数は排除します。排除するとは大抵はその様な能力を喪うということです。
16:37 from web
2,3歳児の訓練で絶対音感を獲得するのではなくて維持して身体感覚に定着させるのです。音楽家の家系に絶対音感者が多いのはDNAがそうさせるのではなく環境がそうさせているのです。偶々音楽的才能が尊重される社会の場合には価値ですが‥→
16:42 from web
→幼児期、少年期に絶対音感を無能力化するプログラムが人の発達段階に組み込まれている以上絶対音感の保持は皮肉な見方をすれば障害なのです。障害とは所詮多数派の鈍さ、価値創造のご都合主義の産物に過ぎないのではないでしょうか?
16:44 from web [ 1 RT ]
天才・障害は同じものなのだと私は考えています。才能は場合に拠っては障害と扱われ、その逆も有り得る訳です。全ては健常とされる側の行動規範の都合・多数者の行動様式の習慣の問題で決定されるのです。絶対音感は文化的な多数者の価値観で、→
16:45 from web [ 2 RT ]
→ある場合には才能、ある場合では行動に影響してマイナスに評価されれば障害にだって扱われます。才能はその人の置かれた状況で心楽しい輝きにも、辛く悲しい苦悩の素になることもあるのです。心の裕さ、人間性の明るさがその2つの扉のどちらかを開ける鍵なのは言うまでも有りません。
17:21 from Twitpic
息子のカタトニア歩行は高1終了間際の時期に苛めと併行して発現。自閉っ子の典型的な歩行と言われても、それ以前の17年間は皆無な歩行様式。私は発達障害者の身体に起因するのではなくて、学校の環境ストレス起因の歩行だと考えています。 twitpic.com/an2p4d
19:53 from jigtwi for Android
私は学校文化の弊害だと思います。偶々その時には縁がなかった苦手なこて出来なかったことは状況が変わると→RT @MiMi64423854: 「苦手」、「出来ない」をあってはならないとし頑張らされるのは学校文化の弊害なのか、日本文化が持っているものなのか? わたしの問いです。
19:59 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →積極的に学びたい、出来る様になりたいに成ります。私は52歳迄自転車に乗れませんでした(笑)何度練習しても無理でした!私にはモチベーションがなくて周囲の勧めでした。大学時代もバイトの関係でキャンパスで練習させられました。無理でした。→
20:05 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →しかし、息子が小2で先に自転車をマスターして、数キロ先の駅前に自転車で出掛ける後ろ姿を茫然と見送った経験に奮起して自転車の練習をしたら僅か数分後には乗れていました。他人の眼差し、評価、指示が行動を後押しする場合とモチベーションを下げる場合が有ります→
20:12 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →学校の周囲に合わせて君も自転車に乗れる様になろう式のスキルアップ指導が逆にある子どものモチベーションを下げる場合もあるのです。私の場合には絵、体育の評価は五段階評価で1ないし2でした。今になって思うと苦手のままで構わなかったのです。→
20:22 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →絵は独りで描きたかった!体育は元気を無理に強制されることの抵抗の時間でした(笑)体育の授業で身に付いたのは周囲に合わせない性格、潔く1 ないし2の評価をもらって置くと言う度胸の様です(笑)更に、子どもを教える立場になった時に財産に為りました→
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@MiMi64423854 苦手、不得意な生徒の気持ちが分かり苦手、不得意に寛容な教師で有り得たことです(笑)更に親になってからは、子どもに理不尽な励ましや成績評価、勉学の遅れに全く動じないおおらかな父親になれたのは学校体育授業が反面教師だったお蔭だと思っています。
20:39 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →出来ないことは出来ないし、それをすることが自分の能力を逆に下げる場合には自己主張する大切さを経験したのはノートの書写でした。私はノートを書写すると授業に集中出来ないので、思いきって相談しました。教師が熱弁して板書し忘れる難問を→
20:46 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →何時も正答する生徒が私だった秘密がノートではなくて教科書の欄外のメモだと気付いた教師は私だけにはノート提出もノート取は免除してくれました。大学時代もノートは一度も取ったことは有りません。周囲と同じことが出来ない子どもを出来る様にすることは→
20:53 from jigtwi for Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →場合によっては才能を引き出すことではなくて才能の芽を摘み取ることになり得るのです。自分のやり易さは相手の困難さを増すことになることを理解しない教育はある意味では精神的な苦痛、精神的な虐待行為だと思います!
21:16 from Plume?for?Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 私の場合にはノート取りが記憶の混乱要因で、無器用だったことが逆に記憶力強化に繋がり授業は集中して聴くもので、記憶に自信の持てない事項は教科書に書き込みむこの方法を皆に勧めるのは問題です(笑)各自の身体精神的特性に合った其々の工夫を考えて欲しいのです!
21:19 from Plume?for?Android (Re: @MiMi64423854)
@MiMi64423854 →画一的な学習方法を指導する学校教育文化は確実に滅びの道を辿っていると思います!
by yosh0316 on Twitter
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