(男性ナレーター)
1987年 沈和年は日本に向けて旅立ちます。
約30年間 彼は、伝統的な中国画の技法と日本の水墨画の画風とを
融合させて独自のスタイルを確立してきました。
2015年10月沈和年は、近年描きためた作品を携さえ 北京市の中国美術館にやってきました。
『東方から来た夢』と名付けたこの展覧会では彼とその他9名の日本在住の中国人画家が 中国と日本の水墨画で探し求めているものを共同で展示したのです。
(本人語り)
この作品は、「恍惚」シリーズと言って少し抽象的で 霞んで靄がかかっているような 小さな山の峰が出現したような あるいは、雲と霧の一瞬の姿に見えるかもしれません。
一番典型的なものが、この一枚です。
墨の濃淡で描いた面に過ぎませんがこの墨で描いた面が 太陽の光をあびて空気の中で、揺らめいているように見えます。
空気の中にいる感覚や自然が呼吸する、あの感覚を表現しているのです。
揺らめいているような、あの感覚です。
(男性ナレーター)
誰も想像できないでしょうが 今では日中両国で異なる水墨画の特徴の間を自在に行き来する沈和年も かつては、日本の水墨画を見るに値しないものと見なし まして、自分の作品に取り入れるなど考えたこともありませんでした。
(本人語り)
総じていえば、日本の水墨画は柔らかいタッチではあるものの 中国の水墨画で言う「骨法」がありません 。
そうした力強いものがないので 日本の水墨画が弱々しく見えたのです。
日本の水墨画を見て、すぐに駄目だと思いました。
気に入らなかった。私には気に入らなかったのです。当時は。
それで私は、日本の水墨画を高く評価しませんでした。
(男性ナレーター)
何が沈和年の 日本の水墨画に対する見方を変えたのでしょうか。
それは、彼が日本に来て間もなく味わった 挫折からお話しなくてはなりません。
1987年 沈和年は、日本での巡回展示即売会に参加しないか、という誘いを受けました。
その後3年間 彼は自分の作品を携えて日本各地を巡り多くの芸術愛好家と知り合いました。
当時、沈和年はこれを機会に日本の画壇に仲間入りできるかもしれない、と考えていました。
しかし日本では 新人画家が画壇から認められるためには 多くの場合、各地で開催される公募展に参加しなければなりません。
展覧会で入賞することが 画壇に仲間入りする第一歩なのです。
ですから沈和年にとって
展覧会への参加は、彼が必ず歩まなければならない道でした。
(本人語り)
この道を歩むこともできましたが私は少し自惚れていて 彼らのレベルは高くない、と思っていました。
私は全国で水墨画展を開いた3年間に多くの都市を巡り 多くの画家とも面識を得ましたが、
(眼鏡に適わなかった?・・・女性インタビュアー)
眼鏡には適いませんでした。それで、どれにも参加しなかったのです。
(男性ナレーター)
沈和年は伝統的な中国画の訓練を受けたため 「骨(中国水墨画の「骨法」)のない」日本の水墨画は 彼の眼鏡には適わなかったのです。
自惚れがあった彼は、公募展に参加しようとしませんでした。 日本の画壇に仲間入りする道は、出口のない袋小路になったのです。
(本人語り)
誰も私を訪ねて来ませんでした。
訪ねてなんか来るものですか。おまえ何様だと思っているんだ、ですよ。
木の切り株に兎がぶつかって転げる幸運を待つだけでは 成功など覚束ないのです。
(男性ナレーター)
1994年、沈和年はもう38才でした。
中年になり妻も子供もいるのに
自分が追い求める水墨画の理想は
はっきりしない、苦しい立場に 置かれていました。
(本人語り)
ここで ただこうしたアマチュア美術愛好家とつき合って居るだけでいいのだろうか と思いました。
もちろん彼らは私に好意的で 尊敬してくれてもいました。
でも、そうやって気楽に作品を制作して ただ日々を過ごすのは あまり意味がない
やはり私は中国に帰ろう、と思いました。
(男性ナレーター)
この年 沈和年は上海に戻りましたが しかし彼は諦めませんでした。
1997年 再び日本に戻った彼は、自惚れを捨ててもう一度、
日本の画壇に仲間入りする機会を探すことにしたのです。
そして日本の美術雑誌に寄稿を始めました。
この時、思いがけずチャンスが訪れたのです。
(本人語り)
雑誌への寄稿がひと区切りついた時 二玄社から私に手紙が届きました。
二玄社に 来てくれないかというのです。
一緒に仕事ができないか話し合いをしたい、という内容でした。
(男性ナレーター)
二玄社は日本の有名出版社です。
多くの優れた東アジア美術関係の図書を出版しており中国や日本の美術界で 高く評価されています。
沈和年はいささかも迷うことなく二玄社からの招きに応じて中国画の描き方を教える本の制作を開始しました。
次回へつづく