《以下引用》
「安倍晋三官房長官は七日、日本テレビ系列の報道番組で、九月の自民党総裁選への出馬について「多くの国民の視線も集中するだろうから、私もある段階では判断をしなければいけない」と述べた。また、靖国神社参拝については「政治家として、国民として国のために戦った方々、命を落とした方々のために祈りをささげ、冥福を祈るのは当然だ。その気持ちは持ち続けたい」と述べ、首相になった場合も参拝を続ける意向を示した」(1月8日『産経新聞』)《引用ここまで》
せめて個人の資格で、ひっそりと参拝して欲しいものである。
さて、ある韓国人遺族から見た「靖国神社」。
題して『許嫁(いいなづけ)』の第三回目。
ソウルのアパートはすぐわかった。開け放たれたドアのところにはすだれがかかっていた。夜の8時を回っていたが、まだ夏の日の残り火が玄関先に漂っていた。
アンニョンハセヨ、私の呼びかけた声に奥から小柄な婦人が姿を見せた。部屋からは日本語放送が聞こえてきた。NHKの衛星放送が流す音楽番組だった。
毎日日本の放送を聞いているんですよ、と流ちょうな日本語が返ってきた。このひとことを耳にしたとき、私は婦人の一途さ、というものを思った。
金玉姫(キム・オクヒ)さん。78歳。夫はすでに他界し、娘たちも片づいた、といった。独り身となった金玉姫さんはこざっぱりとした居間の真ん中に座り、ぽつりぽつりと光山文博少尉との馴れ初めを話し始めた。
「もう昔々の話ですよ。そのときわたしは京都の日赤病院にいました。赤十字看護専門学校の生徒だったんですよ。病院の薬局にも勤めていました。そのときにね、薬局にいた新藤宗次郎先生から紹介されたんです。朝鮮人で非常に素晴らしい人がいる、紹介してあげようかって。
あるときに神田さん、誰かが面会に来たよ、って放送があったんです。それで地下にあった食堂に行ったら手を挙げて僕、光山です、といったんです。昭和18年の5月でした。
光山さんは京都の薬学専門学校を卒業して、あの当時、製薬所に務めていました。わたしの日本名は神田葉子でした。第12回の卒業生ですから昭和20年3月の卒業ですよ。出会ったのはわたしが20歳のときでした。あの人はわたしよりも3つ上でしたから大正9年生まれ、わたしは大正12年生まれでした。
5月に初めて会って、日曜日なんかはよく郊外に遊びに行きました。わたしも制服、あの人も制服でしたから変なことはできないし、厳しかったからね、わたしたちの恋愛いうたら指一本触れなかった。そんな交際でした。
あの人は志願したんです。パイロットになろうと、特別操縦見習士官に志願したんです。だからしばらく面会にも来なかった。たまに来たときに、なにかプレゼントしてくれないか、とあの人がいうので、大丸に行って愛機に飾ってねっていって、赤い人形をひとつ買ってやったこともありました。
なんであの人は特攻隊に志願したのか、そこがわたしにはいまもわからないのです。そのときあの人はね、朝鮮語で話そうというんですよ。学校では日本語だけでしたし、わたしは尋常高等小学校を出て、小さいころから日本人の友達といつも一緒でしたから、日本語は達者でしたよ。でも2人でいるときは朝鮮語を使おうといったんですよ。そして、俺は死なないから、出撃しても逃げてでも生きて帰って来るから心配しなくてもいい、といったんですよ。
わたしは結婚してもいいと思っていましたから兄に相談したんです。こういう人がいて結婚を申し込まれたらどうしよう、って。そしたら兄は、お前がよく考えてそれでよかったら結婚するんだね、と。父も反対はしませんでしたが、いちばん上の兄だけが、特攻隊といえば、死ぬのも決まっているのになんでまたそんな人と結婚するのかと大反対でした。
あの人は第51振武隊に入ったんですよ。『大阪毎日新聞』にも出たんです、振武隊の名前が。特攻隊の名前です。千早とか白龍とかみんな特攻隊の名前じゃないですか。そこにあの人の名前があったんです。それから1ヶ月したときに振武隊と書かれたハガキがきたんです。
そこにはただ、沖縄決戦に行く、元気で幸せに、それだけですよ。そして5月11日の朝、戦死したんですよ、死んで3日後にそのハガキが届いたんです。なんでこんなハガキを書いたんだろうと思って、いまもわからないんですよ。(第四回目に続く)
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