『竜金号乗組員の証言⑦』
吉岡(以下Y)「ここに韓国語で書かれた〈誓約書〉というものがあります。1980年12月29日付けですから、事件から7年経った時に作られたものです。あなたのサインもあります。覚えていますか?」
鄭容碩通信長(以下T)「どういう状況下で誓約書に署名をしたのか、良く覚えてはいませんが、たしか朴正熙大統領が暗殺され、全斗煥大統領になったあと、中央情報部も安全企画部に改称されていましたが、ユンさんという人とチョンさんという人が、われわれ船員を集めたことがありました。そのときにその方々は、これからは会う機会もなくなる、別れなければならない、これは少ないが慰労金だ、といって200万ウォンを渡されて署名をしたと思います」
Y「それはどこで行われましたか?」
T「釜山の中央洞にあるバンドホテルでした。全部集められて、それぞれ個別に署名をしました」
Y「その時、ほかにはどんな話が出ましたか?」
T「その人たちと会うのは初めてではありませんでした。その前にも釜山に来ては私たちを集めて食事をしたり、10万、20万ウォンほどの小遣いをくれました。彼らはある程度面倒をみるように言われていたのだと思います」
Y「仕事の面倒などもみてくれたんですか?」
T「ええ、陸上での仕事先を見つけてくれましたが、海での仕事に比べると、給料の面ではあまりにも差がありました。私たち船員にとって、日本航路の仕事ができないということは致命的なハンディーでした」
Y「誓約書に署名したあと何か言いましたか?」
T「自分の仕事で生きるようにと。韓日政府の間で事件の片は付いたので、船に乗るのもいい、しかし事件のことについては絶対言わないようにと強く言われました。それで200万ウォンと共にこの誓約書にもサインさせられたんです」
Y「気持ちが晴れましたか?」
T「なにか解放された感じになりましたね。この7年間は無駄に過ごしたと言ってもいいくらいですからね。経済的基盤も持てないまま、事件の後遺症をずっと背負い、自分の人生は事件の影響から逃れられないできたわけですから」
Y「もし金大中大統領に会えたとしたら、どんなことをいいたいですか?」
T「ハハハハ、会える機会もないでしょうけど、情報機関から命令されれば拒否することもできませんから、たまたま就職した船で事件に巻き込まれ、事件の舞台に立つことになったと思うようにしているんです。その方(金大中)も大統領の器があったから大統領になったということですし、会っても話すことはありません」
Y「ありがとうございました」
次回は事件当時、竜金号の甲板員だった朴益春夫人へのインタビューを掲載します。
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