《以下引用》
「元外務事務次官で駐米大使も務めた栗山尚一・外務省顧問が、外交問題専門の月刊誌「外交フォーラム」(都市出版発行)の1,2月号に小泉首相の靖国参拝を批判する文章を寄せた。栗山氏は「首相をはじめ、政府の責任ある立場にある者が靖国神社に参拝することは、同神社の『大東亜戦争』肯定の歴史観を共有しているとの印象を与える結果となりかねず、控えるべきだ」と述べている(1月6日『朝日新聞』)《引用ここまで》
今年、首相がいつ参拝するのかはわからない。しかし、栗山氏が述べるように、先のアジア・太平洋戦争を肯定する靖国神社そのものへ、首相という一国の責任者が詣るというのは、隣国から見れば穏やかであるはずがない。
多くの日本人も犠牲となったが、日本が始めた戦争で、アジア周辺国にも多大な犠牲を課したことを想えば、小泉首相がいうように、「一国の首相が、一政治家として、一国民として戦没者に感謝と敬意を捧げる。この心の問題にまで外国政府が介入し、外交問題にまでするというのはいかがなものか」・・・という理屈は本末転倒ものである。
一国の首相であるからこそ問題なのであり、外交問題にしたのは、ほかならぬ小泉首相その人である。
以下は、ある韓国人遺族の「靖国神社」。
題して『許嫁(いいなづけ)』の第2回目です。
私が光山文博こと卓庚鉉(カン・タクヒョン)の名前を聞いたのは韓国でだった。鄭永(チョン・ギヨン)さんという元学徒兵だったという老人が、あれは私のいとこだ、と突然話してくれたのだ。
「韓国の独立に関わって死んだ人や抗日運動のために国を脱出した人は勲章まで貰って国立墓地に眠っている。ヴェトナム戦争で死んだ人(注)は龍山の記念館に祀られている。しかし日本の植民地時代に引っ張られていって、連合軍に銃を向けて戦ったわれわれ学徒兵にはなにもない。特攻隊だった朝鮮人にもなにもない、この国ではわれわれの行き場がないんです」
鄭永さんはそう嘆いたついでに自分のいとこが光山文博、あの日本映画にもなった特攻隊員として死んだ卓庚鉉だった、と口にしたのだ。
さらに鄭永さんは、その卓庚鉉が日本のために戦った英霊として靖国神社に祀られていた、軍服とか軍刀とか写真、靴が展示されていた、この目で見てきた、といった。
「靖国神社に祀られているというのは朝鮮人軍人としても功績があったと思われるかも知れないが、それは誤解ですよ。本当は韓国という父祖の地に帰りたくとも帰れないんだ。許可が下りないんだよ。軍人・軍属だった者は日本のために最後まで戦った、と思われている。ことに特攻隊となれば志願までして行ったんだから、卓庚鉉が故郷の釜山に帰りたいとどんなに思っても、警察署長が許可を出そうともしないんだ」
鄭永さんが釜山にいるいとこだという女性を紹介してくれた。運送会社の従業員用食堂の女主人に納まって十八年、いとこの卓貞愛(タク・チョンエ)さんと卓庚鉉とは、父親が兄弟だという。卓庚鉉さんが生きていれば81歳。いとこの貞愛さんは72歳だった。
昼食の片づけを終えた貞愛さんがテーブルの向こうに座った。
「戦争が終わって50数年、いまでも兄さんのことは思い出しますよ。兄さんの写真が飾られている知覧にはもう4回も行ってきました。富屋旅館にも写真がちゃんとかけてありました。そうそう沖縄にも行きました。兄さんが死んだところですからね。お金もたくさん使ってきました」
「出撃の前の日に、兄さんはね、私は韓国人だ、歌いたい歌があるよ、じゃ歌いなさい、聞いてあげるから、それで肩を組んでね、アリランを歌って・・・・、帽子をこう下げて、涙を見せないようにアリランを歌ったって、行く前の日にね」
50年以上も前のことなのに、富屋旅館の女将さんから聞いたという話をしながら卓貞愛さんは涙をこぼした。そしてこの涙はまた別の意味をも持っていた。
「韓国にね、卓庚鉉の墓を作ろうとしたのに、あいつは日本のために戦った、反動分子だということでいまもできないんです。靖国神社だったら日本のために亡くなったということでみんなが拝んでくれる。韓国ではだめです」
別れ際に、ときどきこの店に来たりしているが、卓庚鉉の許嫁がいまも健在だ、と卓貞愛さんがいった。半世紀も前のことなのに、と私はその想いの深さにちょっと驚いたが、彼女はソウルでひとり暮らしをしているから訪ねたらいい、と住所を紙に書いてくれた。(第三回目に続く)
(注)ヴェトナム戦争・・・1964年から75年にかけて、駐韓米軍の削減問題を棚上げするための見返りとして、朴正熙政権は延べ31万余の兵力をヴェトナムに送った。参戦によって5千人が戦死した。
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