《以下引用》
「韓国の柳明桓駐日大使は30日夕、外務省に高村正彦外相を訪ね、1973年に東京で起きた金大中氏拉致事件について、当時の中央情報部(KCIA)の関与を認め「遺憾の意」を伝達。日本の主権を侵害したことについて事実上陳謝した。
韓国の過去事件真実究明委員会が公表した報告書では、KCIAが事件を主導したと認定している。会談で柳大使は「2度とあってはならないことだ」などと強調。高村外相が「『遺憾の意』を陳謝と再発防止の確約と受け止める」と確認を求め、大使は了承した」(10月31日『産経新聞』)《引用ここまで》
『竜金号乗組員の証言⑧』の今日は、甲板員として乗り組んでいた人物の夫人の証言である。
吉岡(以下Y)「金大中さんが拉致された船にご主人が乗っていたわけですが、その話を聞きましたか?」
夫人(以下S)「可哀想だと思いました。でも、当時は事件のことは口があっても言えない状況でしたから、恐ろしい時代でした」
Y「事件のあと、ご主人の就職も難しかったのではないですか?」
S「勿論です。子供の就職にまで影響を受けました。だからいまも苦しい生活ですよ」
Y「子供にまで影響があったということはどういう意味ですか?」
S「当時は、監視のついている子供を使おうとする会社などはありませんからね」
Y「年々ぐらい続いたんですか、そういう状況は?」
S「何年もでした。詳しく喋ることはどうも・・・」
Y「誰が監視をしたんですか、警察ですか?」
S「主人が、悔しいと訴えようとしても、それも出来ませんでしたし、政府(情報部)からの監視もつきました。主人はただ生業のために船乗りをしていたのに・・・」
Y「ご主人はその船の中でなにをやったと言ってましたか?」
S「なにかをやったということはないといってました。主人は金大中さんが苦しそうにしていたので、お粥を食べさせたり、暑かったから扇子で扇いであげたりしたそうです」
Y「しかし事件で人生を狂わされたと?」
S「正直言ってそうです。もうあまり言いたくはありませんが・・・」
竜金号乗組員の証言はこれで終わり。私の手元には、「K.T.工作要員実態調査報告書」と題する16ページの手書きの資料がある。右上には丸秘の印が押され、1979年3月10日の日付が書かれている。そして右下には、「大統領閣下へ報告済み」(平仮名部分はハングル文字)と記されている。
ページをめくると、目次と記され、調査実施目的、実態調査対象、K.T.工作行動別関与要員一覧表、工作関連船舶処理状況、工作要員事後管理資金関係など、1から7までの項目が記されている。
項目のひとつ、K.T.工作行動別関与要員一覧表によれば、事件に関与した人物らの最高責任者は、李厚洛中央情報部部長とあり、その下には、情報次長補李哲熙、第8局長河泰俊とある。この3人の人物が拉致事件を計画実行した、と読める。
さらに表からは、事件を具体的に遂行していく上で、13の実行部隊が結成されていたことが分かる。現場活動における韓国側の総責任者、日本での活動責任者、東京での行動隊、東京~大阪間移動部隊、大阪安の家での受け入れ部隊、安家から大阪埠頭まで、さらに埠頭待機組、船員を含めた大阪~釜山移動要員、釜山からソウルまでの移動要員など、全部で60余名の名前が記されている。
丸秘文書からは、事件の概要がかなり明確に伝わってくる。そしてなんといってもこの事件は政府の情報機関という公権力が画策し、実行したことだ。そのことは当時も言われていたことだが、日韓の両政府は事件の封印に動いた。恐るべきことだ、といわざるを得ない。
拉致事件に当時の朴正熙大統領の命令があったかどうかはいまもって不明だ。李厚洛が名誉欲のために独断でやった、という説があれば、独断でできるはずはない、大統領の指示があったればこそ可能な事件だった、という説もある。
次回は、朴正熙大統領の娘であり、現在はハンナラ党党首の朴槿恵さんへ、この事件に対するインタビューを掲載します。
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