京都を訪れていた金大中氏は、事件は明らかに元大統領の指示で行われた、と主張した。
《以下引用》
「京都を訪問中の金大中(キム・デジュン)前大統領は30日、1973年に東京都内のホテルで自身が拉致された「金大中事件」について、当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が指示したことは明らかだとの認識を示した。京都市内のホテルで会見を行ったもので、韓日政府ともに事件発生後の収拾において自身の人権を無視したことに対し抗議すると強く述べるとともに、韓日政府は真相を確実に明らかにし、責任を取るべき者は取らなければならないと主張した」(10月31日韓国『連合通信』)《引用ここまで》
当時の韓国の政情を考慮すれば、大統領の指示無しに事件が起きたのかどうかは分からない。絶対的な権力を所持し、「独裁者」と呼ばれていた朴正熙大統領であればこそ、誰かが独断で行ったとすれば、それは忠誠心がなせるワザだったに違いない。
だが事実はどうだったのか。私がインタビューしたのは朴正熙大統領の娘、朴槿恵さんだった。事件から25年経った1998年のインタビューである。2回に分けてお伝えする。
吉岡(以下Y)「お母さま1975年8月15日に在日韓国人、文世光によって射殺され、お父さまは1979年、側近によって射殺されましたが、その悲劇的な状況をどう感じてきましたか?」
朴槿恵(以下K)「私にとっては耐え難いことでした。母が亡くなったとき、悲しむ暇もなく、母に代わって父を助けなければならなくなったわけで、とても重荷でした。公の場に出ることなど苦手で、使命としてやらなくてはなりませんでしたから。しかもその父までもが殺され、本当に辛かったです」
Y「その辛さは当事者でなければ理解できないでしょうね?」
K「最も耐えられなかったことは、父に対する罵倒、非難でした。父の側で仕えていた私としては、父に対する歪曲された評価を正すことも使命となりました」
Y「20年以上も執権していたお父さまの政治をどう評価しますか?」
K「韓国5千年の貧困は民族の恨(ハン)でもあるが、父は自分の責任と捉えて、子孫にまでは絶対譲りたくないという信念で頑張ったと思います」
Y「内外からは独裁政治だ、独裁国家だという非難がありましたが、その声にはどう思ってきましたか?」
K「どんな人にも功績と過ちがあります。父もそうでした。ある人がこういいました。父を正しく評価するためには、父が韓国という国をどういう国に作ってきたのか、当時の韓国という国が父をどう作ってきたのか、このように理解すれば正しい評価ができると。私も同感です」
Y「そうしますと、内外の非難は馴染まないと?」
K「当時、共産国家といえばソ連や中国で親北朝鮮でした。韓国は北朝鮮に比べても経済的・軍事的に遅れていた時代ですから、一日も早くその遅れを取り戻さなければならず、そのためにはアメリカなど先進国の民主主義的な方法では無理があったのです。父は私心を肥やすためではなく、克服するためにやったのです。その中には本意をはずれて、過ちもあったかも知れませんが、大きく見ると今日の発展がその証明になると思います」
Y「漢江の軌跡という言葉があります。大統領は経済の発展に重点を置いたのだと思いますが、そういうことでしょうか?」
K「そうです。経済発展の元でこそ民主化も可能でした。お腹を減らしながらどうして国家の自尊心を守り、自主国防ができるのか・・・。父のしてきたことは間違ってはいません」
Y「孤独だったのだと?」
K「国民から拍手喝采をもらえるような仕事だったら、ば楽だったと思います。そうではなく、人気にも構わず使命を持ってやり抜くには、孤独でもあり、多くの苦悩も伴ったと思います」
Y「維新憲法という大統領ひとりに強大な権限を持たせた、ある意味では超法規的な手段も可能な体制ができました」
K「当時の韓国の状況では、北朝鮮の金日成が戦争で挑発する危険性があり、そのような危機を乗り越えるためにも維新憲法が必要でした。そのおかげで、現在の経済発展があるわけですから、成果にも繋がったと思います。とはいえ、その一方では、その憲法はより強大な力で人々を抑えることにもなり、人権問題で被害を被った人々に対しては胸を痛めています」
Y「当時そのような強力な憲法は必要だったと思いますか?」
K「はい。北朝鮮が掘った地下トンネル問題や北朝鮮からのスパイ問題など、独自的な国防の必要性が高まっていた時期でしたから、それに応じた憲法も必要だったと思います」(以下次回)
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