Re-Set by yoshioka ko

■あまりに軽い「国民投票法」の中身

 今週14日に「国民投票法」が成立した。言うまでもなく、これは憲法改正を視野に入れたものだ。

 しかし一体、今この時期に憲法を改正する必要性が、国民の間に、本当に迫っているのだろうか?この憲法では時代遅れだとか、いまの状況にふさわしくない、といった意見が多数を占めているわけでもないのに、なぜこの時期に、安倍政権は急ごうとするのか。

 これまでの安倍語録を念頭に推測すれば、まず「美しい日本」というフレーズがあり、次に「戦後体制からの脱却」がある。そうすると、安倍さんの頭の中では、戦後日本の体制を脱却し、美しい日本を作るために改憲を目指している、と言う構造が見えてくる。しかも、安倍さん肝いりの集団的自衛権を研究する会の発足などと照らしてみると、どうも改憲と言っても戦争放棄を謳った「9条」を変えたいらしい、というのが見えてくる。

 しかし問題は、そうであったとしても言葉だけが舞っている感じがしてならない。

 例えば、戦争に突き進んだ戦前の日本、敗戦、そして新憲法から60年という歴史が当然あるわけで、その上で、どういう理念を持った日本にしたいのか、その根幹がほとんど伝わってこない。ただ集団的自衛権だの、愛国心だの、そういった個別だけの問題が論議されているだけだという感じであって、これは「恣意的」なものではないのか、という「疑い」をどうしても持ってしまう。

 もう一点は、憲法改正の発議は国会でしかできない事になっている。安倍さんは一国会議員だから発議の権利はあるにしても、一方では、行政の長である内閣総理大臣でもある。行政の長として先頭に立って改憲を言い出すということは、憲法96条「改正」条項と「全ての公務員は憲法遵守の義務」を定めた99条に明確に違反しているのではないか、という「疑い」を持つ。

 この二つのいわば「疑い=疑義」の上にたって、成立した「国民投票法」について、考えてみる。

 成立した「国民投票法」では投票のテーマは憲法改正で、投票年令は18歳以上。そして有効投票総数の過半数で改正が出来る、というふうになっている。問題は、有効投票総数の過半数、ということ。

 地方自治体でよく行われる普通の住民投票ですら、有資格者の50%以上の投票率とか、投票率が仮に低くても、当日有権者の過半数と言ったように、結構厳しい規定があったりする。ところが今度成立した「国民投票法」では、有効投票総数の過半数と、相当ハードルを低くしたところに、穿ったいい方をすれば、なんとしてでも憲法を改正してやるんだ、と言う改正論者たちの思惑が見て取れる。

 もうひとつ問題は、この部分は改正が必要だけど、この条項は絶対ダメ、という考えの人は、どういう投票行動を取ったらいいのか判断に迷ってしまう。分かりやすく言えば、例えば、9条改正は必要ないが、こっちの条項の改正は必要、という人は、国民投票では、賛成に投票するのか、反対に投票するのか、迷うに違いない。そして迷ったから投票しなかった、となれば、いわば死に票とねって国民投票法上の権利を失う。

 つまり、憲法のどの条項を改正するのか、個別の賛否を取っていかないと、意味のある投票にはならないのではないか、という疑いを残したまま、実際には投票した人の過半数で決まってしまうということになってしまう。

 住民投票の欠点としてずっと言われてきていることは、住民投票を提起した側が有利になりがちだ、ということだった。基地問題にしても原発誘致問題にしても、大体が反対する側からの住民投票条例制定の動きによって、議会が可決してきた。そして実際の投票でも、制定を求めて来た側が住民投票も制する結果になる傾向にあった。だから、議会や行政側にも出来るだけ住民投票条例の中身を厳しくする、という傾向があった。

 そのことから考えると、今度の「国民投票法」もそういう傾向があり得ると思う。この場合、改正をしたい側はすんなりいくほうがいい、と思うのが普通だ。その意味でこの法律の中身を見ていくと、憲法改正を言い出す、つまり国会での発議までは、衆参両院で、それぞれ3分の2以上の議員の発議が必要だから、相当ハードルは高い。だが通れば改正はすんなりいってしまう、ということだ。

 だがこれは本末転倒ではないか。

 それは憲法というものが持つ理念というか重みを軽視することになるからだ。憲法には交通法規のような規則(準則)、例えば憲法改正のためには3分の2以上の発議が必要といった面と、国としてあるべき姿、つまり原理を示した面の両方で成り立っている。これに該当するのが、例えば戦争放棄を謳った9条がそうだ。

 いま改憲の目玉とされているのは、侵略や同盟軍が攻撃された場合に、どうするかといった集団的自衛権にまつわるもの。確かに侵略を受けた場合、国民の命をどのように守るのか、ということは原理に属することであり、原理と原理の衝突を調整するため政府は、解釈憲法によって自衛隊を保持してきた。

 仮に9条改正を考えた場合で言えば、本当に国民の命を守ることが出来るのか、却って歯止めがなくなり、ひいては国民の生命が脅かされることにならないか、という理解も出来る。規則は簡単に変えることが出来ても、その国の形、原理を変えるには、それなりの国民の議論なり合意が必要だということはいうまでもない。

 その意味で言えば、憲法改正の発議は、現憲法上の制約から簡単にはできない仕組みになってはいるが、国民的議論や合意を得るための国民投票の方法が、逐条ではなく、イエスかノーという2者択一では、国民を脇においたままの改憲であり、憲法が持つ理念からすれば、あまりにも本末転倒ではないか、と思う。

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