【合気道 横濱金澤クラブ】電子掲示板

2012年から横浜市立金沢中学校の武道場をお借りし活動しており、2019年には(公財)合気会から公認を受けています。

名こそ惜しけれ

2014-05-06 15:06:26 | エッセイ
 武士の最期は、若い盛りに訪れるかもしれないし、また、老いを重ねるまでなかなかやってこないかもしれない。いつ来るかわからないその時を見事に迎えるには、日頃からの覚悟がなければならない。武士の日常のたしなみは、まさにいつ来るかわからぬ最期のために、日々ぬかりなく行われるべきものとされておりました。「葉隠」に次のようなくだりがあります。
「毎朝水にて顔を洗候へば、討死のとき顔色変ぜずといへり。」
 死の覚悟とは、単に精神の持ち方だけではありません。毎朝毎夕、今討ち死にするのであると想定し、実際にそれにふさわしいよう、髭を整え、爪を磨き、武具を手入れしておくのです。武士にとっての身だしなみとは、人目にさらされる己の死体のためになされる行いをいうのです。
 最高の状態で断ち切ることが、物事の完成である。裏返せば、断ち切るために最高の状態へ持っていくというこの考え方は、おそらく武士道思想の他には見られぬ迫力の根源をなすものです。執着を断つというだけなら、決して珍しい考え方ではありませんが、武士にあっては、執着を断つことはそのまま己の死を意味するからであります。
 こうしてみると、満開の桜の盛りに名残りを惜しまれながら散る桜が、他のあらゆる花にもまして武士の姿にふさわしいということが、よく納得されるかと思います。そうしてまた、名残(なごり)という言葉もまた、どこか象徴的なものに思われてまいります。というのも、一生の晴れの討死にを遂げた武士たちが、命に代えて残したものこそは、まさに武士たる己の「名」であったからであります。
 惜しまれながら散る桜が、この世を超えた見果てぬ栄華の夢を名残りに見せるように、武士は、己の理想を末代まで残る「名」に託して示したといえるのでしょう。
 「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
写真:鶴ヶ城と桜(会津若松市)
 現代に生きる我々に対し、武士のような覚悟は求められることはないでしょうが、いつ不慮の事件・事故に巻き込まれないとは限りません。身だしなみを含め、出来るだけ身辺を綺麗にしておきたいと思う今日この頃です。
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