雪姫鳥の独り語

雪姫鳥の山暮らし、日常に感じる事。
雪姫鳥のニットの紹介、旅した国の回想。
食べ物や子育て、雪姫鳥のエコライフ。

泥酔

2010-11-30 14:08:38 | 記憶

早起きして午前中はだったのに、仕事していて洗濯を忘れた。まあ、走ってシャワー後でもいいか、明日も雨ではなさそう。

市川海老蔵さんが泥酔して、顔面を損傷した事件が、連日TVから流れてきます。私にも苦い経験があり、これは海老蔵さんへの警告ですね。

私は高卒で社会へ出たので、お酒の経験は多々あり、好きで毎日飲むというのでは無く、飲むと底なし、うわばみと呼ばれた事もありました。当然、記憶を失ってしまった事も少なくなく、身近な人には迷惑をかけましたが、幸い、事件や事故に巻き込まれた事はありません。

食事を変えてからは、自然酒や焼酎、ビール等を機会あれば飲みますが、自宅での飲酒は、年に数回ですね。

7~8年前でしょうか?奈良で春の個展を終え、とても好評で気分良く、知り合いの店で、60度の泡盛どなんをロックで数杯飲み、更にワインを飲みました。その後は覚えてませんが、精算して、店を出たそうです。

気がついた時は、店の近くの知り合いの家で、寝ていました。顔には傷があり、目の上は少し腫れていました。どうも電柱にぶつかって、そのまま倒れて寝てしまったようで、たまたま通リかかった、知り合いの娘さんが見つけ、難を逃れたようでした。

帽子を深く被れば、目立ちませんが、目の上には傷もありました。宿泊先までは歩いて20分、途中で道路も横断するので、深夜とは言え、車にぶつかっていたらと思うと、深く反省しました。それと、手に負傷しなくてほっとしました。日常生活には差し支えなくても、繊細な指先の仕事が出来なくなります。

その後、勢いで飲む事はなくなりました。海老蔵さんも、顔の神経がどうなるのか、術後でないとわからないようですが、命があり良かったです。歌舞伎役者としての生命はどうなのか? 彼にとっての宿命ですね。

もうすぐ奈良マラソン、終わった日は、お風呂上りにビールを飲もう。


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大人の会話

2010-08-18 10:20:49 | 記憶

今日も晴天。五時から起きているので、昼寝ではなく朝寝したい気分。

昨日の‘ゲゲゲの女房’で感じたのですが、幼い次女が、近所のおばさんの‘お父さん、片腕なのに頑張ってるね’の言葉に、父親の片腕がない事を意識する。長女もそうだったと話す。

私も父親がいない事を、特別な事とは思っていませんでしたが、大人の会話から、複雑な家庭環境何だと、小さい頃から感じて育った。学校へ行くと、私の前で、お父さんの話はしない、などど同級生が言う、何でなのか?と考える。父親のいない子はかわいそう、これが世間の常識だった。

地域で、レベルの高い高校へ入学した時も‘お父さんがいないのに、良く頑張ったわね’などと言われた。

片親とか、両親が離婚しているとか、今はめずらしくはない。形にはまってないと、変に感じる、日本人の常識も変。

早くから、大人社会を感じるのも、悪くはない。

気になどしていたら、生きてはいけない。


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お盆の記憶

2010-08-13 20:36:01 | 記憶

この日は、どうしても故郷で過ごしたお盆の事が、思いだされます。昨年もこのブログに書いていました。

中二の時に、祖父が亡くなり、それまでの家長がいなくなってから、少し手を抜いているようにもなった、行事ごとのひとつが、お盆でした。隣組という近所で12軒で組織された、枠の中での、冠婚葬祭のお付き合いがあり、お盆もそうでした。

おそらく、我が実家は、戦後の農地改革で落ちぶれたとは言え、やはり本家であり、地主だったプライドからか、ちゃんとしないと、という思いだけは強かったようです。何の為では無く、決まり事をきちんとする為に生きている、それで良しの真面目な人達でした。

家族と言うより、家を守る為に同居している人達でした。そこに、自分の信念や理論があって、次世代に繋がれば問題は無いのですが、結局は崩壊してしまいました。誰が悪いと言うのではなく、時代に取り残され、自由な思想など考えもしなかった世代の人かと思います。

お盆になると、養母は活き活きして、実母は早く実家に行きたくてそわそわしていました。養母は働き者だから、自分が中心でやれるのが楽しいのでしょう。私が高一の時に亡くなった祖母を五年程、介護していました。母と養母は仲良くありませんでしたから、私も養母をあまり好きではありませんでしたが、高三で、母が家を出たので、実家には養母だけになり、時々、昔の話しを聞くようになってから、養母を少し理解するようになりました。

世間では、家族間の争い事のニュースが絶えませんが、どこにでも起きうる可能性があると思います。

亡き家族を思い出し、私の迎え盆でした。


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三浦綾子さん

2010-07-08 23:17:38 | 記憶

今日のゲゲゲの女房で、三浦綾子さんの事が出てきた。ちょうど氷点の小説が、懸賞に入賞した頃の事でした。

北海道の思い出に触れていて、ふと思い出した。私はその頃、森田健作さんのファンで、森田さんが主演したTVドラマ‘果て遠き丘’で、三浦綾子さんを知り、他の作品も幾つか読み、逆境にも負けずに生きる姿が、妙に私の心に響いてました。そんな事もあり、北海道という見知らぬ土地へ、行ってみたいとどこかで、思ってました。

その後、ポーラと1999年に訪れた旭川の、ラジオから流れるニュースで、三浦綾子さんの訃報を聞いた。三浦さんはユーカラ織りを好まれ、翌日の新聞にも、ユーカラ織りのベストを着た三浦さんの姿が掲載されていた。何だか、不思議な感覚になったような、記憶がある。

私は自分の感じるままに、行動をしてきた。もちろん、ちゅうちょしたり、ためらったり、上手くいかなかったことも多々あります。でも、その一つ一つの経験が繋がって、今があるように思う。今日、ゲゲゲで、水木さんの台詞、‘プロに成れなくても、魂が繋がる’私も経験からそう言えます。それは、水木さんのお父さんがおっしゃったように、お金を追いかけてきたのではなく、好きな事を求めてきたから。

ポーラが‘WHO KNOWS?’とよく言う。先の事など分からない、こうなりますよと言ったて、人生に保障はない。どうにかなると思って、好きな道を生きるのがいい。

今日は体操して8k走れた。今日で27k、200kまで、まだ遠い。


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ワールドカップ

2010-06-15 10:28:40 | 記憶

今日も早起き、気になるのは、対カメルーン戦の結果。見事、1-0での勝利、各局の盛り上がりを見るのも、楽しい。

’82年の7月、ワールドカップ優勝イタリアを祝勝して、バンクーバーのイタリア人街での、パレードです。当時、知り合いが大のサッカー好きで、私も連れられて、行きました。サッカーのワールドカップが、一体何なのかも知らずに、記念撮影だけパチリ。

十津川に来てから、五度目のワールドカップ。やはり、ドーハーの悲劇を思い出す。日韓開催の時は、それなりに自分も盛り上がっていたが、この頃はそうでもない。

最近のマイブームは何だろう?

自分の日常がそれなりに楽しく、他に気がいかないのかも知れない。


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マネ

2010-06-06 11:48:06 | 記憶

日曜美術館を久しぶりに見た。

エドワール・マネの笛を吹く少年

1985年にパリの印象派の美術館で、現物を見た。私はこれと言って、絵画に興味はなかった。’84年に、ニューヨークのメトロポリタン美術館に行った際も、多く見なきゃと思い、見ている内に頭が痛くなり、何も覚えていない。同じ年の冬、北欧で、コペンハーゲンで、無料の美術館が多かったので、幾つか行ったが、印象に無い。

それで、パリのルーヴルには、行かなかった。何故か?印象派の美術館に行った。多分、こじんまりしていたかただろう。マネと、ドガの踊り子があったように記憶する。ショップで、一枚千円で、プリント画を売っていて、笛吹く少年のプリントとドガの絵ハガキを、数枚買った。以後、軽井沢の別荘を借りて、共同生活していた頃、そこに置き忘れた。’88年、仕事でパリへ行った時、また印象派の美術館に行ったが、もう美術館は無かった。

今、思うと、この絵に魅かれたのは、バランスの良さかなと感じる。無駄がなく、すっきりしている、色使いもいい。

番組では、マネは、絶対的なものがない、バラバラになっていく現代人を、表現しているという、説明が印象的でした。


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ゲゲゲの女房を見て

2010-04-24 17:53:57 | 記憶

新しく始まったNHKの朝ドラマで、古い家を見て、ふと思い出した。

’87年にアジアから帰国し、国立市の古い貸家に住み始めた。トイレが汲み取りだったから、かなり古かったと思う。6畳と3畳、お風呂も台所も、庭もある一軒屋で、私達にぴったりと、不動産やで紹介された。家賃も国立にしては安かった。

さっそく、布地をカーテンや壁紙変わりに使い、台所は黒くペンキを塗り、私達なりに楽しんだ。さて、反応は?

私達と同じセンスの人は、雑誌に出てくるようだといい、保険の外交で回ってる人は、場所がいいので、自宅ならかなりの資産だと、土地にしか興味ない。そして、母は古いというだけで、‘恥かしくて人が呼べない’と、自分が住むわけでもないのに、木造りの良さが分からなかった。

洋風に憬れた時代から、それが普通になり、今は古い物に憬れる時代のようにも感じます。

住む家は、そこに住む人のセンスで味が出る。今の家も古いが、木造の良さがあり、とても落ち着きます。

 


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エイプリルフール

2010-04-01 19:06:28 | 記憶

もう、二十年以上も前だけど、私はアラスカで、マッキンレーに登った。

白夜も体験し、オーロラも見た。湖ではビーバーが泳いでいた。

アラスカハイウェイをバイクで北上した。

今日はエイプリルフール。

嘘はひとつだけ。


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スエットロッジ

2010-03-25 21:25:14 | 記憶

今日も雨でした。今月末まで使える温泉無料券で、ホテル昴の星の湯に行って、サウナに入り、何だかカナダのスエットロッジを思い出しました。

’99年にカナダに滞在していた頃、友人の息子の作ったスエットロッジに、彼の友人がよく集まって、アメリカインデアンのような儀式をしていた。釜風呂のような感じだ。私も息子と何度か入った。友人の息子も彼が八歳の頃、ハウスキーパーをしていたので、親戚のおばさんのような気分。20人近く入れる洞窟のような中を、真っ暗にして入る。元々は彼の父親が、食料を保存する、冷暗所として斜面を利用して創ったものでした。

サウナは気持ちよく、好きですね。日本にあるのは北欧形式のようですが、京都の八瀬で入った釜風呂は、スエットロッジに近かった。

ホテル昴は5分の砂時計があり、私は10分ずつ、2回入ります。5分過ぎると、汗が噴出してくる。だけど、やっぱり走った時の汗は気分爽快。

十津川村も、大型公共事業に頼らなくても、ちょっとしたアイデア、創造性、実行力で、自分も楽しみ、人も喜ばせ、自然エネルギーを活用しながら、何かできるのではないだろうか?


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放浪家族

2010-03-23 16:47:49 | 記憶

先日、我が家で夕食会があり、旅の話題になり、昔ネパールで逢った家族を思い出しました。M子さんと、旦那さんと、六歳位の息子さんでした。

長い事、世界放浪していて、お子さんが小さい時は、サンフランシスコのボートハウスに住んでいたようです。M子さんはフランス語が専門で、教授の資格があるとか、旦那さんはネパールで肉体労働をしていた。妊娠中で、住みやすいトルコで産むと言っていた。私達もポカラに2ヶ月位いたので、何度か一緒に食事した。

‘日本に帰ると、私達は怠け者扱いなのよ’と言っていた。確かに定職を持たない、大人は怠け者扱い。

カナダの友人は‘日本人は働き過ぎて、物価を高くしている’と、私もそう思います。日当が上がれば、物価もあがり、税金も上がる。病気も増えれば、保険税も上がる。

M子さん達はあれから23年、今頃どこでどうしているのだろうか?

日本は格差社会になり、真面目に働いた人の税金で、豊かな日本ではなく、既得権益の人達の肥やしとなった。ほどほどに働いて、好きな事しても、けっして社会の迷惑にはならないと思うのですが。


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俺たちの旅

2010-02-12 12:09:09 | 記憶

寒さが戻ってきています。

昨夜、BSで放送されていた、小椋桂さんのコンサート。好きな曲が多いので、TVをつけたら、ちょうど‘俺たちの旅’が流れていました。懐かしいですね。

’75年、高校生の頃です。中村雅俊さん主演の青春ドラマ、吉祥寺が舞台でした。一年間続きましたが、その頃でしたね、アルバイトでも生活できるかも?って思ったのは。

東京へ出てから、友人を誘って、吉祥寺へ行き、井の頭公園でボートに乗ったりもしました。エスニックデザインが好きになったのは、その頃かもしれません。国立で暮らしていた頃は、アトリエのある広尾まで、井の頭線で渋谷に行き、そこから歩いてました。

今でも、若者には東京で住んでみたい場所の、一番人気のようです。息子は就職したレストランの寮が、偶然、、武蔵野市にあり、吉祥寺は行動範囲内のようです。楽器屋さんが多いのが、お気に入りのようす。お店のある銀座まで中央線で、通っています。途中には高円寺や西荻窪もあり、何だか羨ましい。

中央線沿線の文化もジュニア、三代目の時代ですね。

 


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既視感(デジャヴ)

2010-02-09 17:41:33 | 記憶

最近、気になる言葉がデジャヴ。見た事あるような、どこかで体験したような、そんな感覚です。この頃、そういう事があるのではなく、以前からそういう感覚があって、それがデジャヴというのだと、最近知ったのです。

感受性が強く、思い込みもよくあるのですが、ちょっと説明しにくい体験もあります。

十津川へ越して来て、翌年の夏に母が遊びに来る予定でしたが、夏を前に亡くなりました。十津川の風景をTVで見ていた母は、夢で十津川に行ったから、もう満足だと言いました。考えてみれば、現実の事も過ぎてしまえば夢のようです。

確かに私は世界中を旅しましたが、あれは本当だったのかな?と思う事があります。現実も受け入れてしまえば、夢と同じなのかもしれない。違和感や拒絶したい思いがあると、現実から逃避したくなるのかも知れない。

とにかく、毎日があっという間に過ぎるので、夢のようです。


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ピープルエキスプレス

2010-02-02 13:14:49 | 記憶

風があって少し寒い。二月だから当然と思うが、先週は暖かかったので、春近しと感違い。今朝のネットニュースで、ANAが水と日本茶を除いて、サービスを有料にするとあって、ピープルエキスプレス航空を思い出し、検索してみた。

1981年に開始し、’87年には買収されたとあります。急成長した企業のモデルケースでもあるようです。’84年の10月、モントリオールのYHに、情報が記載されていて、とにかく安いので、ニューワークまで利用する事にした。アメリカ側までの空港に、専用のバスで行く。日本人の私はビザはあったが、ボーダーでチェックを受ける。バス代は別料金だったと記憶する。

空港に着くと、カウンターも無く、荷物を預けるのにも料金を支払ったが、肝心の飛行機代を払わないまま、機内に乗り込んだ。もちろん、席の指定も無いので、自由に座る。飛び立ってからか、離陸する前かは忘れたが、無料って事はないし、不安に思っているとバスの車掌さんのように、通路をやってきて、それぞれが名前の確認して、その場で料金を支払った。当然、厚いチケットはなく、レシートだけでした。機内サービスもジュース一杯だけでした。聞くとビジネスマンの利用が多く、週末はもっと安いとの事。

無事ニューワークに着き、路線バスでニューヨークに行こうと、バス停まで歩いていたら、タクシーに声かけられ、案外安い料金で、ダウンタウンまで運んでくれた。

ピープルエキスプレスはロンドンにも飛んでいて、安かった。旅行代理店を通していないので、直接航空会社に電話するしかない。直接空港でキャンセル待ちしか、空きが無いと言われたたが、何度か電話する内に予約が取れた。でも本当に乗れるか不安で、結局、電話も中々繋がらないから、キャンセルしないままに、アイスランド航空のキャンペーンで、ルクセンブルクに飛ぶ事にした。どうせ、キャンセル待ちの人が乗るから位にしか思いませんでした。

結局、急に拡大し過ぎて、従業員や客の不満が増え、経営も悪化したようだ。安ければいいと言うものでもない。

何だか、貴重な体験をしたようだが、あの時、乗っていたらロンドンへ行き、また人生も変わっていたのだろうか?


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ラーメン

2010-01-22 20:40:56 | 記憶

温泉ジョギングを主宰するSAN_chan のブログで紹介された、無鉄砲のラーメン。私も以前、奈良で食べました。いつも行列が出来ているので、一度、並んで食べました。美味しかったので、次に行った時にはもう、お店は無かった。何故、こんなに並んでいるのか、尋ねたら、奈良で人気No1とか。

私の子供の頃、前の家が製麺屋さんで、ラーメンも扱っていました。廃業した後も、我が家には‘裸ラーメン’(袋の入る前の状態)がスープの袋といつもありました。小学生でも作れるので、いつも食べていた記憶があります。麺喰いです。

食に関心を持ち始めた頃、もう二十年以上も前ですが、その頃は気にして食べませんでしたが、この頃は時々、食べます。特にNiSSiNのは、保存料や着色料を使用していないのが多いです。

昭和34年から9年間、冷蔵庫がまだ普及していない頃、ソーセージなどに使われた、赤色と保存料の添加物が、複合され、それをどれだけ摂取したかで、人の寿命も決ると、西丸震哉さんの‘41歳寿命説’で読みました。兄は四十三歳で亡くなりました。

先日出かけて、買って来た無鉄砲ラーメンを食べました。油っ濃いかと思い、もやし、水菜、三育フーズの大豆の肉もどきを、蒸し煮にしたのと、ネギ、海苔をトッピングしました。スープは濃厚だけれど、油っぽくありません。

いつもなら、夫と二人ですが、一人ラーメンもいいものです。もう一食あるので、何をトッピングしようか楽しみです。

 

 

 


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三十一年前

2010-01-12 17:30:02 | 記憶

今日は雨でした。気温がそれ程低くないようで、霙にはなりませんでしたが、山は薄っすらと白いです。これから、冷え込みそう。

全国的に昨日は成人式。二十歳の頃を思い出しました。成人式には出席しませんでした。もう、その頃はフリーターで、白馬のスキー場でアルバイトをしていました。まだ、海外へ出た事なく、一度は外国に行きたいと思う、二十歳でした。定職は無かったけれど、一年半働いたOL生活で、貯金はあったし、住み込みのバイトなら、生活費もかからないし、将来の不安など、少しも感じませんでした。友人がイギリスにホームスティしたので、いつか私も海外へ!が夢で、何をしたいという夢は無かったように思う。

今のように社会不安な報道があったのか?さえ気にもしないで、自分の事だけ考えていたように思います。ただ、自分で働いて、自分で生活出来ている満足感はありましたね。お金持ちになりたいとか、自分の家がほしいとか、結婚したいとか、全然思いませんでした。自分捜しをしたい、ただそれだけだったように思う。

今の時代は、将来を不安に感じる若者が多いのかな?と思うけれど、昔と比べれば、かなり贅沢な暮らしが当たり前になっている。衣食住をどうするかで、生活費はかなりの格差になる。年収100万円でも、かなり優雅な生活が出来る、そんな時代のような気がします。

今思うと、昔から人と比べなかったような気がします。比べても仕方の無い事が多いから、自分は自分と、そう思って生きてきたように思う。でも、自分が強いと他人と上手くいかない事も、他人と暮らすようになって学びました。人と深く向き合う事は、二十歳の頃は、無かったように思う。

 


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