雪姫鳥の独り語

雪姫鳥の山暮らし、日常に感じる事。
雪姫鳥のニットの紹介、旅した国の回想。
食べ物や子育て、雪姫鳥のエコライフ。

船に閉じ込められた記憶

2020-02-12 17:53:34 | 記憶
ツレの一軒家まで2k
トレランの練習に良い
登りも走るように歩けば
20分で行ける
梅も満開
水菜を分けてもらう

コロナウイルス の話題になり
二人で初めて旅した
1986年の鑑真号を思い出す
神戸から上海まで2泊3日
台風に遭遇し
瀬戸内海に停泊し
上海到着は5日目になった
確か朝食付きの大部屋で
食料持参した記憶だけど
停泊中はパンのみだったような

パニックにはならなかったけれど
上海観光のみで帰国する人は
下船してその日に乗船
旅に予期せぬコトはつきもの
私達は中国を2ヶ月周り
チベットからネパールへ

あれから中国は変わった
西洋諸国並みに
消費が増え
物質文明になれば
ゴミは日本の10倍以上
病気も増え
地球規模に拡大する
もはや現実

ならば日本は
精神文明へと戻り
個人が考える時代へ
移行する
もはや既成政党は
いざという時に役立たず
お金ばかり使って
馬鹿丸出しのようだ



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和の東京

2019-05-21 09:41:40 | 記憶
朝ドラは昭和31年の東京。
私の生まれる前の事、新宿には新しい文化の開拓が始まっていた。

初めての東京は、幼稚園の頃だったかな?
上野の動物園と、浅草の花屋敷と国際劇場。
デパートかな?初めてナイフとフォークで洋食を食べた記憶がある。
今思うと戦後20年位だけれど、そんな意識など微塵もありませんでした。

中学生の頃から、一人で電車に乗って東京へ行きました。
2時間ほどで新宿へ行けたし、憧れの原宿や青山へも、
地下鉄に乗って、地図を持って、TVで見た景色を確かめていた。

高卒で上京、南千住の三ノ輪駅の近くに部屋を借り、
地下鉄日比谷線で、秋葉原の会社まで通勤していました。

見るもの全てが新鮮で、面白かった。
当時は都庁が有楽町にあって、パスポートの申請も有楽町。
地下のショップのワゴンに、見慣れぬ服が山積みになっていて、
トップスが500円、1000円で売られていて、二着購入。
後になって、Indioの服と知りました。

機織りがしたくて、中央線沿線に部屋探しをし、
高円寺で、またもやIndio のスカートを見つけ、購入。

今思うと、潜在意識にアジアのモノが好きだったのかなと思う。
引越しは辞めて、会社を一年3ヶ月で退職し、
昭和52年の夏に、北海道から私の旅は始まりました。

今のように、ネットもSNSも無かったけれど、
嗅覚や感性で、モノや人の出会いが東京には溢れていたように思う。
何だか、昭和の東京が懐かしいです。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母の思いで

2016-08-01 09:31:58 | 記憶

 8月1日は母の誕生日

生きていれば83歳

初海外は、母と行ったグァム

この頃、46歳、元気だった

当時の私は21歳、ピチピチでしたね

インデオの服がお気に入りで、やはりヘアバンドしている

南田さん宅に住み込んですぐだったけれど

旅行は決まっていたので、休暇をとった

南田さんから、お母さんと旅行するのは、偉いと誉められた

母は43歳で再婚し、一年半ほどで離婚

家政婦として、病人の付き添いをしながら生計を立てた

この頃は、生活も安定し始めたと思う

この後もタイやロスなど、海外へツアーで参加したよう

旅好きは遺伝子なのかも

62歳で生涯を閉じたけど

女性の生き様を見せてくれた母

最期の4ヶ月は母に付き添ったので

思い残す事は無いけれど

食についての理解は、死に際でようやく

友人も多いと思っていたけれど

老後は兄と暮らしたいと言っていた

お見舞い客も多かったけれど

自分が出しているから、返ってくるだけと

その兄も亡くなったので

短くても楽しい人生だったかと

お金を頼ると、心が貧しくなり

かと言って、お金は必要最低限は要る

母のような強いパワーはないけれど

女性の自立は、彼女が最初の手本

大好きだった五木ひろしさんと

楽屋裏で言葉を交わせた事が

私が母への唯一のプレゼントだったと思う

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家族の歴史

2014-07-06 12:42:34 | 記憶

明日から、秋冬物の製作に入れる

少し、片付けをして、ダンボールにそのままにしていた母のアルバム

女学校時代の様子が、きちんと整理されている

昭和8年の生まれだから、戦後になる

私が保管しなければ、ただのゴミになってしまう

私の生まれた頃や、父との新婚旅行

私が一歳の時の父の葬儀の風景

亡き兄と映した、幼少時代

母と行った、グアム旅行

母は62歳で亡くなった、もう20年前の6月の末

父や母の事、養父や養母の事、一緒に過ごした家族は誰も居ない

実家は兄嫁の家なので、養母が亡くなったのを機に

必要な物だけ、持ってきた

私が居なくなれば、誰も必要とはしないのかも

整理して、少しだけ息子に残したい

特別に何かを成したのでは無いけれど

私が存在するのも、何か意味はあるのだろう

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出を新しく

2014-04-01 13:31:07 | 記憶

何だか懐かしい写真

小学校5年の春の遠足のよう

ヘアバンドは自作、まだ帽子は編めなかった

一年前に養母が他界し、私の生まれ育った家族は

みな、あの世に行ってしまった

物の無い農家に育った私は、どこかにコンプレックスがあった

茅葺屋根の大きな家は、関東大震災で、斜めに曲がったまま

隙間風の入る家は、冬は寒く、夏は虫が飛んでいた

井戸水、土間のおくどさん、お風呂もマキで焚いていた

薄暗く、汚く、嫌だった

高校時代、世界史の先生は東大出身で

土間のある生活をしていて、変った先生でした

19歳で、東京から田舎暮らしを山でする人達と出会い

価値観が変化していった

思えば、本物のモノに囲まれて、衣食住があった

大工さんに作らせたという

靴箱と書類入れのような小さなタンスは、我家にある

この懐かしい写真のあるアルバムも

整理したい物は、持ってきた

時間の余裕が出来たら

少しずつ記録に残したい

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北京飯店スワニー

2013-08-30 16:29:48 | 記憶

朝から蒸し暑く、スコールもあったりで身体がだるい

ちょっと涼しくなったので、ようやく仕事に入る

バンコクの食堂、北京飯店スワニー

BSの番組は、紀行ものが多い

先日、懐かしい場所が映ったので、ついパチリ

バンコクのチャイナタウン界隈

今は営業していない宿、楽宮の下にあった

ここは、アサリの味噌汁や丼物などの日本食があり

日本の雑誌や漫画、情報誌が並んでいる、日本人にとっては憩の場

近くには、ジュライホテルという安宿もあって

楽宮、ジュライは長期滞在の宿として有名だった

今はカオサンが、外国人旅行者のたまり場のようだけれど

1980年代は、チャイナタウンだった

まあ、麻薬や売春で社会問題になったようだけれど

普通にバックパッカーも利用していた

スワニーというのは、オーナー女性の名前

TVのインタビューで、1バーツ間違えただけで怒る変な日本人と

1バーツは、日本円なら数円

日本で、数円落ちていていても、拾わない人、多いと思うけれど

何だか、自分の車を奇麗にする為に、外にゴミを捨てる

そんな、日本人が多いのかな

蒸し暑いので、バンコクの喧噪を思い出しました

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしさ

2013-07-26 11:51:26 | 記憶

ブログの写真にも使っている、カラスとのツーショット、小4だった息子が撮った

こちらも、懐かしい一枚

1999年の夏だから、14年前ですね

久しぶりのカナダは、日本のようにホタルが飛び、少し湿気があった

日本の四季が無くなり、カナダが日本のようになるのは、現実のようにも思う

アジアを旅していた頃、中国やインドが日本のような生活になると

ゴミが出て大変と思っていたら、、、、現実のよう

中国人が牛肉を食べだしたら、大豆相場が上がり、病気も増えるのかな

と、思っていたら、、、、

人の欲望は、無い物に憧れる、それは仕方の無い事かもしれないが

貧乏と言うのは、欲に限りがない事のよう

中国では、何度か不正に請求されたことがあった

けっして豊かな生活で無い人達から、分け合う事も学んだ

中国もインドも日本も、私達と同じような意識の人は居る

カナダでも、もったいない意識で暮らす人は居る

エコロジーは世界共通の意識で繋がれる

また、いつか、旅に出ることがあるのだろうか

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京散歩 三ノ輪

2013-04-28 20:03:50 | 記憶

ゴールデウィークが始まりましたね

今日は、車の音も無く、とっても静かでした

日没が遅いので、気がつくと夜時間

前回の東京散歩の続き、広尾から日比谷線に乗り、三ノ輪で下車

ここは、都電の三ノ輪橋も近い

高校を卒業して、薬事日報社という、薬業界の出版部に就職した

そして、南千住に部屋を借りた、36年も前

駅から歩いて7~8分位だったけれど、住所も確かな記憶が無い

都電も何だかお洒落

ホームの向こうは喫茶店だったけれど、、、、

昔の東京スタジアムの近くで、お風呂やさんの側

真っ直ぐの道なので、途中で八百屋のおじいさんに聞く

左が警察、右がお風呂や、、、、

まだ、銭湯あるんだ

けれども、煙突が見えない

途中で、おばあさんに聞く

あそこの銭湯は、汚いよ、、、、、、

入るわけではないので、、、どこを見ても煙突が無い

今度は中年のおばさんに尋ねる

もう、銭湯は無くなって、建売住宅になっている

??そうか、お年寄りって、今の事は知らず、昔の事は覚えているのですね

どう見ても、このアパートの2階だったような

大家さんの家もあったけれど、無くなって、貸し部屋だけが

6畳と台所が2畳半、トイレ付きで、2万5千円だった

銭湯も3分とかからなかった

職場は秋葉原で、9時に出れば9時半に間に合った

一年3ヶ月しか住まなかったけれど、ここが出発点

左腕を怪我して、銭湯で右腕だけで髪を洗っていたら

おばさんが、私が洗ってあげるからと、、、

下町らしい人情を感じた、記憶が残っている

編み機を使っていたので、大家さんからセーターを頼まれた事も

人生、そどのページも今の私に繋がっていますね

今度は、世田谷や国立も散歩したい

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京散歩 渋谷~広尾

2013-04-24 17:23:51 | 記憶

今日は雨です、もっと強く降るかと、体操お休みしました

旅の途中に、東京へ行って、懐かしい場所を歩きました

ツレと一緒になった頃、国立に住んで渋谷から広尾まで歩いていた

出勤は十時から四時までだったような、ニットファーの編地を創る仕事

渋谷駅の東邦生命ビル方面、この歩道橋を渡って脇道に

昔ながらの魚屋さんで、方角を確認

もう、二十五年位前、何だか建物が増えた

廻り道しながら、やっと氷川神社の参道へ

昔は無かったように思う、相撲の土俵

この階段を真っ直ぐ降りても、渋谷駅に行ける

この辺の記憶は、何となく昔のまま

大使館もある通り、ここも、緑が減ったような

そして、広尾の日赤病院を抜けて

ガーデンヒルズに到着

地下鉄日比谷線のすぐ側、ここのG号棟に通っていた

十年ひと昔と言うけれど、その2.5倍もの年月

当時、億ションと言われたこのマンションも、何だか普通

30分位かかっていたと思うが、マラソンのお蔭か、案外とすぐだった

無印良品のショップも、敷地内にあって、めずらしかった

あの頃の私は、十津川村とは、無縁だったと思うと

人生って面白い

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西洋の香り

2013-02-18 12:40:41 | 記憶

雨に濡れると、カタヒバが美しく映える

雨の景色も、楽しめますね

香りにも記憶があり、旅したいろんな国を思い出します

このデミグラソースの素を使うと、バンクバーやカナダを思い出す

にんにく、玉ねぎをオイルで炒めた時から、キッチンはカナダに居た気分

味噌汁のように、この香りや味は毎日でも楽しい

今日のランチは、リゾットでした


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桑名正博さん

2012-10-27 18:38:45 | 記憶

桑名正博さんが、亡くなられた、58歳

何だか、気になる人でした

私の記憶では、南田さん宅でハウスキーパーを始めた頃

桑名さんの著書を見つけ、読んだ

幼稚園か小学校低学年?の遠足で、自宅の前を通った時

とっても大きな豪邸で、塀は長く、周りの子供達が騒いでいた時

門の側で、妹さんが‘お兄ちゃん’と声をかけた

それ以後、桑名さんを見る周囲の眼が変り、いじめられたような事が書いてあった

十代半ばで、南の島を旅してコミューンを訪れ、ヒッピーに出会い

その後、サンフランシスコへ旅をする

当時の私は、コミューンの存在を知っていたので、何だか身近に感じていた

南田さん夫妻が、桑名さんの仲人をする事になり

アン・ルイスさんと、訪問されたことがあり

アン・ルイスさんも可愛かったけれど、桑名さんもカッコ良かった

薬師寺で挙式し、披露宴のアンの衣装はピンクで超素敵だった

震災以後、神戸の復興に尽力され、音楽も続けていた

桑名正博さん、ご冥福をお祈りします


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今朝の雲 186

2012-06-29 08:48:41 | 記憶

朝の6時ごろ、蒸気が上がっていく、今日は降らないようだ

8時過ぎ、雲間に青空が、光も少し差し込む

今日は官邸包囲網、行く人も行かれぬ人もそれぞれの思いで過ごす

そういえば母の命日?

はっきりした日にちの記憶があいまい

六月の末、28日か29日だった、紫陽花の花が添えられた

幾つもの映像は、はっきり記憶にあるけれど

日にちの記憶は、私にとっては意味がないのかも

意識も無くなり、心臓だけが動いていて

呼吸がかすかになり、医師と看護士が来た

時計を見ながら、心電図を見て

〇時〇分、、、、何だか妙な気分だった

四ヶ月付き添って、母との別れは出来ていた

私にとって、母は六月の末、紫陽花の季節に旅立った


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出の扉

2011-05-22 14:53:49 | 記憶

雨が降ったり、やんだり、何だか梅雨のようです。

展示の準備で、探し物をしていたら、写真が出てきました。思い出というのは、何かをきっかけに、次から次へと引き出されますね。

1984年、3月の初めにエジプトから帰り、名古屋での舞台中に尋ねた時ですね。お手伝いを辞めてから、二年は経っています。私は25歳、長門さんは49歳、同じ犬年でした。今の私は、この頃の長門さんの年齢を越しているのですね、何だか、自分が幼く感じます。

一人で海外をウロウロできても、社会性がありませんでした。世の中のしくみ、政治も含め、無関心で、ただただ、自分で働いて生活が出来ている事で、自立していると、思っていましたね。

芸能界という、特殊な世界を見たり、聞いたりしたことが記憶にあり、後になり、なるほど、だからそうなのか、、、と理解するようになりました。

貴重な体験をしたと、今でも有難く思い、感謝しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真面目な日本人

2011-01-11 17:35:44 | 記憶

今朝は一番の冷え込みのようで、室内の空気もひんやりしていました。昨日の残雪も凍結のようで、夫も仕事が休み、残り二日半が中々終わらず、彼がいると仕事モードに入らず、駅伝が終わって、気抜けしています。明日は体操あるし、今日はブレイクでいいかと思う。

中学の頃は自転車通学でした。時間はどれ位か覚えてませんが、車なら15分位かな?同じ地域の他の三人と一緒に通学していた記憶があります。めったに無いことですが、雪が積もったことがあり、私は学校を休みました。他の三人は自転車を押しながら、一時間以上かけて登校したようでした。今のように、すぐ車で送るという事はありませんでした。

夫に話すと、それは親が行かせたのだろうと言う。私は放任されて育っていたので、休むのも勝手に決めていましたし、それが悪いとも思わなかったし、無理に行って事故にあったら大変。でも私は自分が不真面目とは、思いませんでした。

小学校の頃から気になっていた。ルールは必要だけれど、何の為なのか?だから、ルールを変えるのは、状況に応じて当たり前の事と思っています。決めた事を変えるのは、大変ですが、変な常識に支配されるのも苦痛です。

凍結していても、仕事しなければならない人も多いと思うが、ちょっと時間をずらして行っても、それ程困らない仕事もあると思う。団体行動が苦手な私は、小さい頃から放任されて、何でも自分で考え、決めていたからだろうか?


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おせちの思い出

2011-01-05 11:30:11 | 記憶

お正月のおせちに関する、ニュースを見ると、今は作るより買う時代なのですね。日持ちする料理を、年末に作り、正月はのんびりというのが、おせちなのかと思ってましたが、今は贅沢なおせちが喜ばれるようです。

昔、南田さん宅で、お手伝いしていた頃は、長門さんのお母様が京都の人で、おせちは京風でした。

ごまをたっぷり使ったたたきごぼう、大根と人参のなますにもごまを入れました。お雑煮は白味噌で、野菜も京野菜。数の子も塩出しして、鰹節をたっぷり入れて薄味にしました。煮物も京風に炊いた記憶があります。

買った物もありましたが、お野菜の物は丁寧に作った記憶があります。子どもも頃は、鮭やごぼう、人参の昆布巻きが、おせちの思い出で、特にこれといった物は、無かったように思う。

息子が小さかった頃は、南田さん宅で覚えたおせちを作りましたが、今は作らなくなり、お重に料理を入れる事もないですね。息子が覚えていてくれるといいですが。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする