昨日の朝、箕面からの帰り
奈良の葛城山麓の県道30号線
大阪へ行く時に通る道でも
帰りに通る事は滅多に無く、しかも早朝
奈良盆地を望み、少し雲海が広がっていた
簡単なデジカメで広大さは、お伝えできないけれど
雰囲気だけでもと、、それくらい美しく感じた
古からこの地に文化が宿り
日本の和を感じる風景です
同じ道でも、方向が違うと眺めも異なり
季節や時間で新しい出会いがあります
街は規格品の画一的な建物が立ち並び
季節感は催事の宣伝だけ
自然の移ろいは、神の創造
お馬鹿な天候も
それなりに楽しめます
群馬 みどり市西福寺の本堂の片隅
お寺での展示は2度目です
ニット作家の履歴とか、パネルの用意もこれからで
ショールの作品と雪姫鳥の商品でまとめる
来年は作家への私の道を表現できればと思う
コンサートも2度目で
元ガロの大野さんも住職もツレの世代
お元気なのが嬉しい
キーボードの太田美知彦さん
さすがプロと思えるミュージシャン
出身が信州の安曇野なので、不思議です
みどり市の神梅館
レトロな温泉旅館で、とても静かな佇まい
神のお告げがあるという温泉
私は群馬で生まれ、母の名がみどりです
R122の近くで育ち、道を辿ると
わたらせ渓谷鉄道と並行して、日光に向かっています
ご縁が繋がり、仕事の拠点を日光にと思っています
隣接している桐生市は、日本の機どころでした
群馬の繭と生糸は日本一と
上毛かるたで学んだ私にとって
手仕事のDNAを引き継いだ養母の実家が
足利で栃木県出身
これからご縁がどう紡がれるのか
私の道は日光へと向かい
みどり市とのご縁も楽しみです
24日に展示も終わり、草津温泉経由で大町美麻へ向かいました
世のチリ洗う草津温泉が、上毛かるたのよです
古き良き温泉街も、クリスマスの準備
湯畑も35年振りだろうか
雰囲気あるけど、全体がテーマパークのように感じます
周囲に有名人の名前が刻まれていました
土曜日でしたので、駐車場も満車
道の駅に止めて、1k位かな歩きました
丁度良い距離で、薄着でも身体が温もり
道の駅近くに無料の温泉も見つけました
11時〜15時までで、湯船と桶だけの温泉つつじの湯
強酸性泉で眼に入ると少し痛い
肌も少しチクチクしてきますが、温まります
草津から県道59号を抜けようと
道路状況を尋ねると
道路は良いけど、人家の無い道を通りますと心配されたので
慣れているから大丈夫ですと
嬬恋高原に出ると思わずWaっと声が出た
丘が連なり広々として、カナダを思い出す
パノラマは写真より記憶に残りますね
菅平を抜け、長野へ降りる県道が急で
十津川で慣れた私でも、上りは避けたい気分でした
久しぶりに、初めて道の移動は楽しく
日光から大町までのルートは豊富なので
暫くは楽しめそうです
エーゲ海のショートクルーズに出かけたが、もっともっと遠くへ行きたくなりシフノス島へ。
アテネから5時間位の船旅で、近からず遠からずで選び、島に2泊しました。
夏のような太陽の陽射しが無くても、どこを撮っても絵葉書になるような素朴で、美しい島。
白い建物と赤や青の窓の、コントラストが何とも言えないメルヘンを感じました。
空き屋を月$300で、レンタルするオーストラリア人がいると聞きました。
世界各地にシェアハウスしている人が居るので、憧れます。
陶芸家の多い島で、夏は暑いので、シェスタ(昼寝)をするので、
夕方4時~8時まで働くと、出遭った地元の陶芸家が言っていました。
タベルナでは歌い踊り、何故か?お皿を投げて割ります。
放し飼いなのか、普通にいました。
荷物もロバが運んでいます。
灯台ですね、ロケ地には最高の場所。
1983年の11月にニューヨークからハンブルクに渡り、
約4ヶ月のヨーロッパ滞在でした。
1988年に仕事で、パリとミラノへ行きましが、記憶が乏しい。
これと言った目的も無いままに、ウロウロしましたが、感性と美意識はアップしました。
情報が無くても、美しいと感じたり、心惹かれたり、ドキドキしたり、そんな旅でした。
この後、カイロ経由で日本に帰ります。
エジプト滞在の10日間は、インド旅に繋がる、新たな好奇心が芽生えました。
私の旅はまだまだ続きます。
もちろんアテネでも、市場へいきました。
魚介類も多く、ペースト状に近いタラコとヨーグルト(クリームチーズのような)を買い、
パンにつけて食べていました、安くて美味しいごちそうでした。
ギリシャ語でレストランをタベルナと言います。
「地球の歩き方」を持った日本人の旅行者も多く、顔見知りになった旅人達と何度か食事をしました。
ポテトとタラコのタラモサラダや、ナスのグラタンのムサカは、大好きです。
ギリシャにはレツィーナと言う松脂の香るワインと、ウーゾと言う40度の蒸留酒があり、
音楽や踊りが好きな、陽気な人が多い印象を受けました。
スイーツの苦手な私にバクラバは甘すぎて、未だに本格的なバクラバは食べたことがありません。
私はカイロ経由で日本行きの、旅券を購入していたので、もし買う前なら、進路を変えたかも知れない。
人生にたらればはないけれど、あの時、航空券を買っていなければ、
イスタンブールへ飛んでいて、別な出会いがあり、違う人生だったかもと思ったりもします。
シンタグマ広場や郊外もウロウロして、アテネを歩き回りました。
でもやっぱりギリシャはエーゲ海の小島です。
つづく
1984年2月
アテネもエーゲ海とアクロポリスのイメージだけでした。
ブリンディシの港近くの駅から、船の出発が近いと知り、
次の時間を調べる余裕も無く、急いで乗船した記憶があります。
船は午後の出発で、船上で夜を過ごす事になりました。
安いチケットでは船内に入れず、甲板にいなければなりません。
夏なら星空眺めてと気持ちもいいが、2月では寒い、私は寝袋も持っていませんでした。
数人の旅行者と相談し、最終の見回りの後に、船室に入り込み、空いている椅子に座りました。
アテネから来た日本の女性と知り合い、パトラスからアテネまで一緒に行きました。
パトラスの港に着き、彼女の後を追うように駅に行きました。
アテネ行きの列車に乗ると、車内はテレビドラマで見る戦時中の買出しのような雰囲気でした。
エーゲ海のギリシャとはイメージがかけ離れて、
当時の通貨ドラクマは国際通貨ではなく、国外に出れば紙切れでした。
ドルも貴重でアテネは航空券もドル買いで安かった。
アテネに着いたのは、夜中でしたがが、日本女性の常宿にしているプラカ地区に行く事にしました。
タクシーの交渉も彼女がして、無事、安宿に泊まる事が出来ました。
アクロポリスの丘のパルテノン宮殿をバックに撮っている、日本人の撮影隊にあいました。
クイズ番組の正解シーンに使うようでしたが、やっぱりここでもTVとご縁がありました。
世界遺産をバックに写したこの写真、何だか勇ましくて、好きですね。
つづく
オードリヘプバーンがスクターに乗っていても、おかしくないようなローマの街並みでした。
カナダから日本に帰るのに、ニューヨーク経由でヨーロッパを見てからと思ったのは、
ハンブルクに知人がいたのと、北欧のニットが見たいからでしたが、
バンクーバーで知り合ったフランス人がパリに居たのも、理由のひとつです。
パリから帰るつもりが、友人から「南を見て、アテネでチケット買うと安いよ」のひと言で、
ローマに途中下車したのも、事前に調べも無く、かなり感性をアップできたと今は思います。
市場好きな私は、ローマでも覗きにきに行きました。
裏はこんな感じで、何だかアメ横のような雰囲気でした。
ローマと言えば、トレビの泉。
見物人も多く、どうやらCMの撮影のようです。
TVと縁多い私だけれど、アテネでも撮影に遭遇します。
パリとは違うお洒落感がありますね。
バスも遺跡の街に合うオレンジ色。
ローマの休日で有名なスペイン階段。
階段から見ると、噴水があって街の中にあります。
ローマは噴水が多い、日本の井戸のような感覚なのかな?
古くても侘び寂びの世界を感じます。
ローマのカラカラ浴場の跡地。
テルマエ・ロマエはラテン語でローマの浴場の意味です。
歴史は面白いと思うけど、年号とか名前が入って来ないのが残念。
コロッセオやフォロ・ロマーノ、ローマは遺跡の街という印象がありました。
当時のインスタントカメラでは、その全景は撮れませんが、歴史の中に入った気分でした。
馬に乗る警察官を見たり、ローマ大学の食堂に行ったり、楽しく過ごせました。
結局、ローマに4~5日滞在してブリンディシに向かった。
ここから、ギリシャのパトラスまで船に乗り、パトラスからアテネまでの列車の乗車券が、
トランスアルピーノでパリで購入したチケットでした。
時刻とか詳しく調べないで、乗り継ぐままに乗船しました。
チケットの有効期限は2週間位あったようにも記憶していますが、
何となく流れのままに目的地に向かっていました。
つづく
1984年の1月の末
ユーレイルパスの条件が合わず、購入できなかったので、
友人の勧めで、トランスアルピーノという格安長距離切符で、イタリアに向かいました。
パリからアテネまでの切符で、驚いたのはTGVに乗れた事。
トランスアルピーノはアルプス越えの意味があるようで、
乗り換え駅でアルプスの山が綺麗に見えました。
当時、日本でも周遊券という安い切符があったが、新幹線など使えない。
青春切符は鈍行のみという事からすると、本当に乗っていいのだろうかと疑ったくらいです。
外国人専用のジャパンレールパスも、一週間3万円足らずで新幹線が利用できるから、
外人さんは優遇されているのでしょうね。
乗り換えてトリノかミラノに向かい、駅で一夜過ごして、ローマにたどり着いた。
サラエボオリンピックの開幕前でしたが、世間の事などまったく考えずに旅をしていました。
ローマはユースホステルを利用し、先ずはバチカン市国へ。
最小の主権国家、バチカン市国、1984年に全体が世界遺産に登録されている。
街がとても奇麗で、聖堂の屋上から写しました。
日本人の信者さん、女性だったように思いますが、
いろいろ説明され、案内をして頂いたが、あまり記憶が無いのが残念。
観光地にあるお土産物屋さんがなく、信者さんに必要な物だけを売る店が、通りに並んでいました。
そして街は清掃したばかりのような気配があり、宗教心の無い私でも感じるものがありました。
つづく
ヴェルサイユ宮殿と庭園が、世界文化遺産に登録されたのは1979年。
私達の世代なら、漫画「ベルサイユのばら」はあまりにも有名。
私が訪れたのは1985年、名所旧跡は意識しなかったけど、ここは特別でした。
ヴェルサイユはパリから20k程離れている。
日本人の観光客に紛れて、説明を受けました。
時間もたっぷり、庭園も行きました。
現実にマリーアントワネットが、ここで過ごしたかと思うとため息がでました。
侘び寂びの気配、美意識の高さ、さすがですね。
庭園内は解放され、歩けるようにもなっています。
毎日、世界遺産の中を歩いて通勤している人達にも出会いました。
ゴミ箱もゴミも無かったように記憶しています。
ヴェルサイユ宮殿、特にプチトリアノンは今思うと懐かしい未来のようです。
21世紀になり、今でも変わらない姿でしょうか?
私はパリからスイスに行き、スキーをして帰国する予定でした。
友人から「日本でスキーは出来ないのか?」と問われ、南へ行くことを勧められました。
そしてバチカン市国は見るべきだとも言われ、
イタリアへ南下して、その先は後で考えようとパリを離れました。
つづく