バイブルプロジェクトの文字起し
第二テモテ
テモテへの手紙第二
この書はパウロの最後の、そしてもっとも個人的な手紙です。
彼はこれを牢獄に入れらているときに同労者であり我が子のような若いテモテに宛てて書きました。
第一テモテを書いてからどれほど時間が経った頃かはわかりませんが、パウロの置かれた状況は悪くなっていました。
ローマで投獄されていますがこれは使徒の働き28章に記されている自宅軟禁のことかもしれないし、あるいはそこから解放された後長い間宣教活動をし、そのあとに再びトロアスで捕らえられた時のことかもしれません。
どちらにしろパウロは裁判にかけられている最中で、その成り行きは思わしくありません。
今回は死をまぬがれないだろうとパウロは確信しています。
そのような厳しい状況の中でまだエペソの教会で働いているあろうテモテにこの手紙を書いています。
パウロは自分が始めた教会の開拓という使命を引き継がせるために、ここに会いに来てくれとテモテに頼んでいます。
この手紙の構成はいたってシンプルで、パウロがテモテを教え励ましている大きなセクションが二つあります。
まず指導者としての召しを受け入れるように、次にパウロのところに来る前にエペソ教会の偽教師問題に対処するようにと言っています。
そして最後の言葉を述べるのです。
最初にパウロはテモテと彼の家族、特に祖母ロイス母ユニケについて神に感謝をささげています。
テモテの家族は幼いころから彼に旧約聖書の話を繰り返し聞かせ、メシアなるイエスへの深い信仰を育んだのです。
その信仰があるからこそパウロはテモテを奮い立たせようとしています。
パウロはイエスの福音やその福音を宣べ伝えたために投獄されている自分のことを、恥じてはいけないとテモテを戒めています。
パウロがわざわざこれを言わなければならなかったのは、何度にも及ぶ投獄で彼に汚名が着せられていたからです。
そのためパウロの多くの同労者たちが彼は本当に使徒なのかと疑っていました。
パウロはここでフィゲロとヘルモゲネの名前を挙げています。
彼らは犯罪者となったパウロと関わることを恥、彼を見捨てて去っていきました。
そのためパウロはテモテに自分を恥じることなく会いに来てほしいと頼んでいます。
その頼みがテモテを危険にさらすかもしれないことをパウロは承知していました。
だからイエスの恵みこそ力の源だという大事な事実をテモテに思い出させています。
イエスに従うのは容易なことではなく、すべてをささげなければならないのでその恵みによる力が必要なのです。
パウロはイエスに従うことを軍隊に入隊した兵士が上官を喜ばせようと必死に努力することになぞらえています。
あるいは競技大会のために体を鍛えるアスリート、または熱心に働く勤勉な農夫のようだと。
この三つの比喩に共通するのは自分よりも偉大なもののために犠牲をいとわず、試練に耐えて目標を達成しようとする人の姿です。
そしてもちろんこの例の最たるものはイエスご自身です。
父なる神への信頼と服従のゆえにローマによる十字架刑を耐え忍んだのです。
それと同じようにパウロも今ローマによる投獄を耐え忍んでいます。
困難と犠牲はクリスチャンの信仰生活につきものであり、だからこそイエスのよみがえりが希望の源となるのです。
パウロはそのことを短くも力強い詩で表現しています。
メシアと共に死ぬならメシアと共に生きるようになる。
耐え忍ぶならメシアと共に王になる。
メシアを否むならメシアに否まれる。
私たちが誠実でなくても彼は誠実である。
彼はご自分を否むことができないから。
この世界に対する神の愛はイエスの死とよみがえりを通して新しい希望をもたらしてくれました。
だからイエスに信頼して従うリスクを負う者に、神はその正しさを認め命を与えると約束してくださるので。
イエスを拒絶する者に対してはその意思を尊重し、同じように彼らを拒絶します。
しかし人が不誠実だからといって神も不誠実になることはないので、パウロはテモテにたとえ犠牲を払ってでも誠実であり続けるように言ったのです。
次にパウロは手紙の後半でテモテに、ローマに来る前に偽教師たちと対決するように指導しています。
偽教師たちの教えはエペソの教会で癌のように広がっていました。
彼らは教会で影響力を持つ女性たちに狙いを定め、彼女たちを堕落させていました。
それはパウロが第一テモテで問題にした裕福な女性たちだったようです。
偽教師たちの教えの内容については、テモテはすでに知っていたためここでは詳しく触れていません。
少し垣間見えるのは彼らが復活はもう起こったと教えたことです。
偽教師たちは肉体のよみがえりを否定し、それは霊的な経験にすぎないとするギリシャ哲学の影響を受けていたのかもしれません。
あるいは聖霊の力によってすでに始まっている、よみがえりの命についてパウロが教えることを歪めたのかもしれません。
いずれにしろ問題なのは彼らがよみがえりと新しい創造についての確かな希望を打ち捨て、代わりに日常生活とは切り離された個人的な霊的体験至上主義に走ったことです。
それでパウロはテモテに誠実なリーダーを立て、イエスについての真実の福音を教えるように言ったのです。
彼らは偽教師たちの論争から生まれた無意味な議論を避けなければなりません。
代わりにテモテと彼の同労者たちには大事にすべきことがあるはずです。
つまり聖書その当時は旧約聖書を指していましたが、その中心的なストーリーとメッセージに焦点を当てるべきです。
聖書はあなたに知恵を与え、メシアなるイエスへの信仰を通して救いに導くとパウロは言います。
聖書の要点はイエスにつながる一つのストーリーを伝えることであり、そこには世界中に知らせるべき知恵があります。
それからパウロは聖書の性質と目的について語ります。
まず聖書はすべて神の息がかかっていて、神の霊によるものだと説明します。
これは聖書の著者たちが神が人々に語りたいとおりのことを書けるように、導いた聖霊の働きのことを言っているのです。
そして神はとても具体的な目的のために聖書を通して人に語り掛けられます。
それは以前は知らなかったことを教えてくれるとパウロは言います。
また口では信じていると言いながらそのように生きていないと戒め、混乱した考えや行いを自覚させ矯正してくれます。
さらに義に関して訓練しまことの人間となる道を教えてくれます。
これらのことはすべて、神の民が善い働きにふさわしく整えられるためなのです。
パウロは手紙の最後で自分は生きて牢獄を出ることはできないだろうから、冬が来る前になるべく早く来てくれともう一度テモテに頼んでいます。
牢獄で凍えないように置いてきてしまった厚手のコートを持ってきてほしかったからでもあります。
またおそらくトロアスで逮捕された時に置いてきた本や紙も、持ってきてほしいと依頼しました。
それからパウロはテモテが避けるべき危険人物として、アレクサンドロの名を挙げています。
彼はパウロの最後の逮捕に関与していたと思われます。
そしてパウロは最後に牢獄にいる自分をほとんどの人が見捨てた今、彼のそばにいてくださるイエスだけが慰めでありたとえ命を落とそうとも、イエスは彼を救ってくださると語って手紙を閉じています。
第二テモテはパウロの偉大な生涯とその働きが、常に困難と苦しみと葛藤に満ちていたことを示しています。
イエスに従う道には危険と犠牲が伴うのです。
葛藤も生じるし不快のことも避けられないでしょう。
しかしこれは決してイエスに見放されたからという事ではありません。
むしろパウロや後の時代のクリスチャンたちが経験したように、暗く困難な状況においてこそイエスの愛と真実は満ち溢れ、確かな現実として現わされるのです。
これがパウロの最後の手紙テモテへの手紙第二です。