少しエロいタイトルになったが、ブラオイラに限ってそれはありません。
以前に小松城跡を周った時に、近くの宮本三郎美術館に入ったのです。
この歳でわかる女性の裸体の芸術性。
いやらしい意味ではないのです・・・女性の裸というのが芸術の対象になるということ、
・・・なんとなくわかるような気がしてるんです。
宮本三郎(1905年5月23日~1974年10月13日)は現在の石川県小松市松崎町に生まれの昭和を代表する洋画家です。
戦前は二科展を中心に発表を行いながら雑誌の挿絵や表紙絵の制作でも活躍。戦時中は従軍画家としてマレー半島、タイ、シンガポールなどに渡り数々の戦争記録画を制作しました。
戦後は、さまざまに画風を変えながらも、人物を主たるテーマとして制作、晩年は花と裸婦を主題にした豪華絢爛な絵画世界を構築します。
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ここまでは以前に小松を訪れた時の出来事なんですが・・・、
今日はその続きというべきか、女性つながりで同じ小松でも串の遊女に関する場所をブラつきました。
そう、小松市串には全国でも珍しい遊女の墓があるのだ。
ちなみに遊女とは、
遊郭や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称である。
この小松市串町に、かつて北陸街道随一の花街があったというのだ。
(ネットより抜粋)
江戸時代の初め、加賀藩と大聖寺藩のちょうど境目にあった串村には一里塚が築かれ、その付近で2軒の茶屋が営業を始めた。北国街道を行き来する旅人や、街道整備の人夫たちを接待するためだった。それが、串の出村「串茶屋」の始まりだ。
その後、加賀3代藩主前田利常公が小松に隠居し、那谷寺の再興にとりかかるとそこで働く職人たちが串茶屋に立ち寄るようになった。そのため婦女による給仕が盛んになり、廓としての営業の許可状も与えられたという。17世紀中頃のことである。
当時は加賀藩内唯一の公認遊郭だったそうだ。有名な金沢の西・東の茶屋街は19世紀初めにつくられたものだと言えば、串茶屋の歴史的価値が大きい。
加賀藩では遊郭禁止の政策を打ち出すこともあったが、串茶屋は1660年に大聖寺藩領に移されたので、以降は大聖寺藩公認の廓として営業が続けられたようだ。なんでも大聖寺藩のお殿様も通っていたそうな。
最も栄えたのは文化・文政の頃(19世紀前半)で、20軒ほどの茶屋が軒を連ねていた。その頃の串茶屋は、文人墨客が遊ぶ文化サロンといった趣を呈し、北陸街道一の不夜城として賑わっていた。
遊女たちは、三味線や胡弓、笛、舞踊などの芸事をはじめ、俳句や和歌、生け花、茶の湯なども習い、その教養と気品は京都の島原さながらだったという。
明治になって公娼制度が廃止され、また国道筋での営業禁止などもあって、明治33年(1900年)に、串茶屋の廓は約300年にわたる歴史の幕を閉じた。
まずは遊女の墓へ行こう
字がうっすい・・・
おっ目的の場所は近いね、
町内感強いね
目の前に墓地が見えてきた。
ここですね。
ふむふむ・・・
看板の後ろにあるのが、どうやら遊女のお墓らしい。
遊女の方のお墓が一基ごとあるのは、全国的にも大変珍しいんだって。
へぇ~。
この墓地の向こう側は猿が馬場
一向一揆の古戦場だそうで。
お墓をあとにして、資料館に来ましたが、
残念今日は閉まっていました。
しかたがないので、次はあの地図にあった神社へ
おいらん燈籠なんてのがあるそうで
ここだここ。
あれか
この灯篭が
おいらん灯篭みたいです。
文久三年というと1863年で154年前に遊女の方が寄進されたのです。
これも珍しいことなんでしょうね。
旧北陸街道
ここに茶屋街があったとはねぇ・・・
こんなものもありました。
今回はちょっとエロチックなブラオイラでした。
【ヒゲ親父】
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以前に小松城跡を周った時に、近くの宮本三郎美術館に入ったのです。
この歳でわかる女性の裸体の芸術性。
いやらしい意味ではないのです・・・女性の裸というのが芸術の対象になるということ、
・・・なんとなくわかるような気がしてるんです。
宮本三郎(1905年5月23日~1974年10月13日)は現在の石川県小松市松崎町に生まれの昭和を代表する洋画家です。
戦前は二科展を中心に発表を行いながら雑誌の挿絵や表紙絵の制作でも活躍。戦時中は従軍画家としてマレー半島、タイ、シンガポールなどに渡り数々の戦争記録画を制作しました。
戦後は、さまざまに画風を変えながらも、人物を主たるテーマとして制作、晩年は花と裸婦を主題にした豪華絢爛な絵画世界を構築します。
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ここまでは以前に小松を訪れた時の出来事なんですが・・・、
今日はその続きというべきか、女性つながりで同じ小松でも串の遊女に関する場所をブラつきました。
そう、小松市串には全国でも珍しい遊女の墓があるのだ。
ちなみに遊女とは、
遊郭や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称である。
この小松市串町に、かつて北陸街道随一の花街があったというのだ。
(ネットより抜粋)
江戸時代の初め、加賀藩と大聖寺藩のちょうど境目にあった串村には一里塚が築かれ、その付近で2軒の茶屋が営業を始めた。北国街道を行き来する旅人や、街道整備の人夫たちを接待するためだった。それが、串の出村「串茶屋」の始まりだ。
その後、加賀3代藩主前田利常公が小松に隠居し、那谷寺の再興にとりかかるとそこで働く職人たちが串茶屋に立ち寄るようになった。そのため婦女による給仕が盛んになり、廓としての営業の許可状も与えられたという。17世紀中頃のことである。
当時は加賀藩内唯一の公認遊郭だったそうだ。有名な金沢の西・東の茶屋街は19世紀初めにつくられたものだと言えば、串茶屋の歴史的価値が大きい。
加賀藩では遊郭禁止の政策を打ち出すこともあったが、串茶屋は1660年に大聖寺藩領に移されたので、以降は大聖寺藩公認の廓として営業が続けられたようだ。なんでも大聖寺藩のお殿様も通っていたそうな。
最も栄えたのは文化・文政の頃(19世紀前半)で、20軒ほどの茶屋が軒を連ねていた。その頃の串茶屋は、文人墨客が遊ぶ文化サロンといった趣を呈し、北陸街道一の不夜城として賑わっていた。
遊女たちは、三味線や胡弓、笛、舞踊などの芸事をはじめ、俳句や和歌、生け花、茶の湯なども習い、その教養と気品は京都の島原さながらだったという。
明治になって公娼制度が廃止され、また国道筋での営業禁止などもあって、明治33年(1900年)に、串茶屋の廓は約300年にわたる歴史の幕を閉じた。
まずは遊女の墓へ行こう
字がうっすい・・・
おっ目的の場所は近いね、
町内感強いね
目の前に墓地が見えてきた。
ここですね。
ふむふむ・・・
看板の後ろにあるのが、どうやら遊女のお墓らしい。
遊女の方のお墓が一基ごとあるのは、全国的にも大変珍しいんだって。
へぇ~。
この墓地の向こう側は猿が馬場
一向一揆の古戦場だそうで。
お墓をあとにして、資料館に来ましたが、
残念今日は閉まっていました。
しかたがないので、次はあの地図にあった神社へ
おいらん燈籠なんてのがあるそうで
ここだここ。
あれか
この灯篭が
おいらん灯篭みたいです。
文久三年というと1863年で154年前に遊女の方が寄進されたのです。
これも珍しいことなんでしょうね。
旧北陸街道
ここに茶屋街があったとはねぇ・・・
こんなものもありました。
今回はちょっとエロチックなブラオイラでした。
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