今日は朝は雨、午後から曇の一日でした。
あるテーマに沿って2か所の場所に行ったのですが、
この場所の事を知ったのはいずれも今年に入ってからのことでした。
先の大戦である第二次世界大戦において石川県にとって知りたくなかった黒歴史があった。
地元も歴史も大好きなオイラですが、恥ずかしながらこの事は全く知らなかったのです。
まず最初に行ったのが、
金沢市小坂にある野間神社。
なんの変哲もないどこにでもある郷社の神社ですが、
なんとここは、あの731部隊と関わり合いがあった神社なのです。
731部隊・・・
第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。
満州に拠点をおいて兵士の感染症予防や衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。そのために人体実験や、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされている。
元731部隊員の複数の証言によれば、人体実験の被験者は主に捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称され、その中には、一般市民、女性や子供が含まれていた。
敢えて、人体実験の内容は掲載しませんが(書くに堪えない)、本当にひどい事をしていた悪魔の部隊である。
それがこの野間神社とどういう関係かというと、
1945年8月、敗戦とともに中国・ハルビンから日本に引き揚げた731部隊はここに仮本部を設け、1カ月弱の間、部隊の残務処理をしたといわれている。
731部隊の部隊長だった石井四郎らが旧制四高出身だったことや、周辺に旧金沢陸軍病院や旧日本陸軍第9師団の兵舎があって軍人がうろついていてもアレルギーのない地域だった。
(拝借)
なんと731部隊が、戦後しばらくこの神社に滞在したというのである。
さらにオイラにとって衝撃だったのは、
この野間神社、オイラ子供の頃何度か遊びに来たことがあったんです。
オイラの母方の実家はこの小坂町であって、小さい頃に大好きなお婆ちゃんと一緒に何度かこの神社のお祭りに来ていたのだ。
出店でお面を買ってもらった記憶がある、懐かしく楽しい思い出の場所でもあるのだ。
久しぶりに来たなぁ、40年ぶりくらいになるのかな・・・、
この神社は少し大通りから奥まった場所にある為、近くの道路を通過しても目にすることはないのである。
たしかに、
軍事的な雰囲気が少し強い感じもする。
ただそれほど大きな神社ではないから、
731部隊の残存数がどれほどいたかはわからないが、
こんな場所に滞在できたのだろうかね、
そんな情報はまったく近所の人も知らないと思うが、
静かな場所です。
今から70年も前に、
あの許されざる悪魔の部隊がこの場所に滞在していたのかと思うと、少し背筋が寒くなる思いがした・・・。
次の場所へ向かった。
金沢から遠く加賀東谷の山間部へ
いつもは静かなこの地、
今夜はビックイベントがあるようです。
加賀東谷の集落。
この地で恐るべき人物を生み出してしまったのである。
その者の名は、
先の大戦で悪魔の作戦参謀と呼ばれた・・・。
辻政信である。
辻 政信・・・
つじ まさのぶ(1902年(明治35年)10月11日 - 1968年(昭和43年)7月20日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸士36期首席・陸大43期恩賜。軍人としての最終階級は陸軍大佐。
ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。 軍事作戦指導では「作戦の神様」「軍の神様」と讃えられた。
その一方で、指揮系統を無視した現場での独善的な指導、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある。
敗戦後は数年間を国内外で潜伏したのち戦記を上梓しベストセラーとなった。政治家に転身し衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)を歴任した。参議院議員在任中の1961年(昭和36年)4月に視察先のラオスで行方不明となり、1968年(昭和43年)7月20日に死亡宣告がなされた。
恥ずかしながら、この人が石川県出身ということを知らなかった。
ブラオイラ#237で重伝建造地区である加賀東谷を訪れた際に、偶然生家を発見したのである。
辻政信か、
無謀な作戦を押し進め、多くの若者が戦地に散ってしまった。
ノモンハン、ガダルカナル・・・どれもこれも勝ち目のない最悪の作戦。
時代が狂っていたとか、誰しも責任があるとか、そう評論する人もいるが、
そんなバカな話はない。
当時の若者兵の命を紙切れのごとく軽く扱っておきながら、自分自身は戦後も生き延びて、
驚くなかれ政治家までなってるとは、怒りを通り越して呆れるばかりだ。
村の外れに、
それはあった。
なんと彼の銅像である。
地区にとっては、先生というところか、
それにしても、なんと威圧的なポーズだろう。
近づいて見上げる人に対し、指を差している・・・
何かを言わんとしているようだ。
辻の晩年は謎である。
東南アジアを視察で出向きラオスで消息を絶っている。動物に襲われたか、現地の反政府軍に殺されたか、
遺体も発見されず、裁判所による死亡宣告により死が確定した。
ちなみに死亡宣告は1969年(昭和44年)6月28日に行われた。
オイラが誕生した年である。
今日は何とも重い内容のブラオイラとなった。
幼少の頃に遊んだ神社が、あの悪魔の731部隊の滞在地だったり、
悪魔の作戦参謀と呼ばれた辻政信が石川出身だったり、
この者達のせいで多くの命が犠牲となった。
死にたくない、生きたいのに生きることができなかった多くの若者がいたこと・・・・、
それだけは忘れてはならないのだ。
【ヒゲ親父】
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あるテーマに沿って2か所の場所に行ったのですが、
この場所の事を知ったのはいずれも今年に入ってからのことでした。
先の大戦である第二次世界大戦において石川県にとって知りたくなかった黒歴史があった。
地元も歴史も大好きなオイラですが、恥ずかしながらこの事は全く知らなかったのです。
まず最初に行ったのが、
金沢市小坂にある野間神社。
なんの変哲もないどこにでもある郷社の神社ですが、
なんとここは、あの731部隊と関わり合いがあった神社なのです。
731部隊・・・
第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。
満州に拠点をおいて兵士の感染症予防や衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。そのために人体実験や、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされている。
元731部隊員の複数の証言によれば、人体実験の被験者は主に捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称され、その中には、一般市民、女性や子供が含まれていた。
敢えて、人体実験の内容は掲載しませんが(書くに堪えない)、本当にひどい事をしていた悪魔の部隊である。
それがこの野間神社とどういう関係かというと、
1945年8月、敗戦とともに中国・ハルビンから日本に引き揚げた731部隊はここに仮本部を設け、1カ月弱の間、部隊の残務処理をしたといわれている。
731部隊の部隊長だった石井四郎らが旧制四高出身だったことや、周辺に旧金沢陸軍病院や旧日本陸軍第9師団の兵舎があって軍人がうろついていてもアレルギーのない地域だった。
(拝借)
なんと731部隊が、戦後しばらくこの神社に滞在したというのである。
さらにオイラにとって衝撃だったのは、
この野間神社、オイラ子供の頃何度か遊びに来たことがあったんです。
オイラの母方の実家はこの小坂町であって、小さい頃に大好きなお婆ちゃんと一緒に何度かこの神社のお祭りに来ていたのだ。
出店でお面を買ってもらった記憶がある、懐かしく楽しい思い出の場所でもあるのだ。
久しぶりに来たなぁ、40年ぶりくらいになるのかな・・・、
この神社は少し大通りから奥まった場所にある為、近くの道路を通過しても目にすることはないのである。
たしかに、
軍事的な雰囲気が少し強い感じもする。
ただそれほど大きな神社ではないから、
731部隊の残存数がどれほどいたかはわからないが、
こんな場所に滞在できたのだろうかね、
そんな情報はまったく近所の人も知らないと思うが、
静かな場所です。
今から70年も前に、
あの許されざる悪魔の部隊がこの場所に滞在していたのかと思うと、少し背筋が寒くなる思いがした・・・。
次の場所へ向かった。
金沢から遠く加賀東谷の山間部へ
いつもは静かなこの地、
今夜はビックイベントがあるようです。
加賀東谷の集落。
この地で恐るべき人物を生み出してしまったのである。
その者の名は、
先の大戦で悪魔の作戦参謀と呼ばれた・・・。
辻政信である。
辻 政信・・・
つじ まさのぶ(1902年(明治35年)10月11日 - 1968年(昭和43年)7月20日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸士36期首席・陸大43期恩賜。軍人としての最終階級は陸軍大佐。
ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。 軍事作戦指導では「作戦の神様」「軍の神様」と讃えられた。
その一方で、指揮系統を無視した現場での独善的な指導、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある。
敗戦後は数年間を国内外で潜伏したのち戦記を上梓しベストセラーとなった。政治家に転身し衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)を歴任した。参議院議員在任中の1961年(昭和36年)4月に視察先のラオスで行方不明となり、1968年(昭和43年)7月20日に死亡宣告がなされた。
恥ずかしながら、この人が石川県出身ということを知らなかった。
ブラオイラ#237で重伝建造地区である加賀東谷を訪れた際に、偶然生家を発見したのである。
辻政信か、
無謀な作戦を押し進め、多くの若者が戦地に散ってしまった。
ノモンハン、ガダルカナル・・・どれもこれも勝ち目のない最悪の作戦。
時代が狂っていたとか、誰しも責任があるとか、そう評論する人もいるが、
そんなバカな話はない。
当時の若者兵の命を紙切れのごとく軽く扱っておきながら、自分自身は戦後も生き延びて、
驚くなかれ政治家までなってるとは、怒りを通り越して呆れるばかりだ。
村の外れに、
それはあった。
なんと彼の銅像である。
地区にとっては、先生というところか、
それにしても、なんと威圧的なポーズだろう。
近づいて見上げる人に対し、指を差している・・・
何かを言わんとしているようだ。
辻の晩年は謎である。
東南アジアを視察で出向きラオスで消息を絶っている。動物に襲われたか、現地の反政府軍に殺されたか、
遺体も発見されず、裁判所による死亡宣告により死が確定した。
ちなみに死亡宣告は1969年(昭和44年)6月28日に行われた。
オイラが誕生した年である。
今日は何とも重い内容のブラオイラとなった。
幼少の頃に遊んだ神社が、あの悪魔の731部隊の滞在地だったり、
悪魔の作戦参謀と呼ばれた辻政信が石川出身だったり、
この者達のせいで多くの命が犠牲となった。
死にたくない、生きたいのに生きることができなかった多くの若者がいたこと・・・・、
それだけは忘れてはならないのだ。
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