てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

ブラオイラ#298(福井幕末偉人編)

2018年09月24日 19時08分37秒 | 【ヒゲ親父】ブラオイラ
NHK大河ドラマ「西郷どん」は毎週楽しみに見ています。

オイラにとって、2018年大河は久しぶりの当たり年でした。

ドラマにも登場した福井藩士の橋本左内。
西郷隆盛とも親交があって、先を見通せる偉大な人物として風間俊介さんが演じてましたね。

NHK歴史秘話ヒストリアで、「橋本左内と由利公正 知られざる維新の天才たち」というタイトルで、藩主の松平春嶽公もあわせて福井の幕末偉人三名を紹介していました。


なぜ幕末において福井から偉人が出現したのか?
越前(福井)は薩摩や長州と違って、親藩だったのに、
いわば体制側で、保守的な土壌だったはずなんだけど・・・、

その御三方のこと、もっと知りたくなったので福井に行って来ました。

福井市立郷土歴史博物館に到着しました。


正門横に春嶽公の像がありました。

やっぱ県民の方から慕われているんですねぇ

入館します。

館内写真撮影は基本NGですが、撮影OKの場所も結構ありました。

縄文から近代まで、福井市の歴史が細かく紹介されています。


一番オイラが興味を引いたのは、福井城下の足羽川に架かっていた奇橋 九十九橋です。


当時の大日本国橋見立相撲の番付によると

東の関脇です。(当時は横綱はなく大関が最高位なので関脇は2番目)

模型がありました。


奇橋と呼ばれるゆえんは、


この橋、半分石で半分木で出来ているのです。


あの葛飾北斎も描いてます。

なんとも珍しい橋だったのですね。

ちなみに大日本国橋見立相撲によると前頭の後ろの方に加州浅野川橋と書いてありました。


そして、
当然、橋本左内のこともいっぱいありました。

ふむふむ

博物館を出て、後ろに周ると舎人門と呼ばれた江戸時代の門が復元されてました。

この場所は、福井城の一部だったのです。

そして少し歩くと


養浩館(ようこうかん)があります。


ここはお庭がすばらしいのです。

回遊式林泉庭園と呼ばれるそうです。

1600年代に作られた福井藩主の別邸です。


いいお庭だ。


数寄屋造りの屋敷、座敷を通して正面の池が覗き見えます。

う~ん、侘びの世界!

では、次の場所へ行こう。


裁判所。


ありました


ここが、


橋本左内が住んでいた場所です。


橋本左内・・・(ウィキより)
橋本左内は、江戸時代末期(幕末)の志士、思想家、越前国福井藩藩士。号は景岳。諱は綱紀。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』(1848年)がある。
1849年(嘉永2年)に大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵に師事する。19歳の春に帰藩し患者の治療に励んだ。父が病死すると、外科担当の藩医の列に加えられた。1854年(安政元年)には江戸に遊学し、蘭学者坪井信良の塾に入り、間もなく先生の紹介で杉田成卿に師事し、蘭方医学を学ぶ。その後、水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助、小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠らと交流する。窮迫した時勢に接するうちに、医学を離れたい心をおこした左内は、中根雪江、鈴木主税の尽力によって1855年(安政2年)に藩医職を解かれ、御書院番組に転じた。やがて福井藩主の松平春嶽に側近として登用され、1857年(安政4年)正月藩校・明道館学監となる。在任中は、藩主の側近として藩の政治、国の政治に大きな関わりを持つようになった。

江戸幕府14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また幕藩体制は維持した上で西欧の先進技術の導入を構想し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。
1859年(安政6年)、大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まり、春嶽が隠居謹慎を命じられると、将軍継嗣問題に介入したことを問われて取り調べを受け、親戚の朧勘蔵の邸に幽閉され、謹慎を命じられた。1859年11月1日(安政6年10月7日)、伝馬町牢屋敷で斬首となった。享年26(25歳没)。

26歳である、若すぎる・・・。



次は、柴田神社へ向う。


着きました。


出た鬼柴田!


織田信長の家臣筆頭で前田利家などを従えた北陸方面軍司令官。
羽柴秀吉と賤ヶ岳の戦いで敗れ、この場所にあった北ノ庄城にて妻のお市とともに自害した。

左にお市の方と三姉妹(茶々、初、江)の像


しかし北ノ庄城跡でもあるこの場所、もう少し何かあるかと思ったが・・・


さて昼食食べに福井駅に行こう。


はい恐竜王国、福井です

ガルルルル・・・

まもなく始まる福井国体。

平成最後の国体になるんだね、成功を祈ります。

おや!


ワインまつりだって、

飲みたいねぇ。


食事を終え、また歩く。



福井城址。


御廊下橋です。


その横に、福井神社。


菊の御紋に葵の紋と
なんとも厳かな場所である。


ここにも春嶽公。



さて車を停めてある博物館まで戻ろう。


いい感じのがあった

なんかかっこいいじゃないの

博物館から少し離れた場所へ車で向かう。



もう一人の天才、由利公正だ。


邸宅跡なんだが・・・、


残念なことに河川工事で消滅したんだって(惜しいことを・・・)


あの坂本龍馬がほれ込んだ男、
龍馬は福井まで会いに来てますからね。

(ウィキより)
由利公正は、福井藩士、政治家、財政家、実業家、子爵。 福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から財政学を学ぶ。橋本左内らと国事に奔走し、藩主の松平春嶽から財政手腕を評されて抜擢され、藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。 坂本龍馬の来訪を受けて交流を深める。五箇条の御誓文の起草に参画した(公正が作成した「議事之体大意」が原文となっている)。坂本龍馬とは大変気が合ったようで、龍馬2度目の福井来訪時、足羽川近くの山町のたばこ屋旅館にて、早朝から深夜まで「三岡、話すことが山ほどあるぜよ」と延々日本の将来を語り合ったという。龍馬2度目の福井訪問から約1週間後、公正は福井城下にて足羽川沿いの土手を歩いていたその時、一陣の突風が吹き、懐中に忍ばせておいた龍馬の手紙を落としてしまった。時と同じくして京都にて龍馬が暗殺されたという巷談が残る。

由利公正は79歳まで生きることができました。


かわいい路面電車が前を通過していく



幕末の福井に生まれた三偉人、
松平春嶽公、橋本左内、由利公正。
福井の人によって、これまでもこれからも尊敬され慕われ続けていくのでしょう。



最後に・・・


橋本左内墓所がある公園。

像も立っている。


有名な啓発録だ。

稚心を去る、氣を振う、志を立つ、学に勉む、交友を択ぶ。
福井の小学校では必ず習うと番組で紹介されていたね。


ここか・・・、


さぞ無念だったことでしょう。



橋本先生・・・・、

今の日本は、先生が思い描いていた将来の姿、理想の姿となっていますでしょうか・・・。
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