いよいよナラタージュの公開が週末に迫ってきた。

公開前の本日、
さすがカミさん、映画の試写会に行って来ました。
フォーラスの映画館です。
早速LINEで何やら送ってきた。
フムフム

ふぅ~ん

さて、この映画「ナラタージュ」
前々から言ってるとおり、オイラとカミさんは
なんとエキストラに応募して、撮影に参加しちゃっているのだよん。
写っているかなぁ~
なんて、
冗談半分で言っていたけど・・・・・・・・・・・・・・・・
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓

ゴクリ、
まじか・・・・
オイラの場合はこの時ね⇒エキストラ
週末には、オイラもカミさん(何回も行くんだって
)と観に行って確認してきます。
【ヒゲ親父】
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公開前の本日、
さすがカミさん、映画の試写会に行って来ました。
フォーラスの映画館です。
早速LINEで何やら送ってきた。
フムフム


ふぅ~ん


さて、この映画「ナラタージュ」
前々から言ってるとおり、オイラとカミさんは
なんとエキストラに応募して、撮影に参加しちゃっているのだよん。
写っているかなぁ~

なんて、
冗談半分で言っていたけど・・・・・・・・・・・・・・・・

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ゴクリ、
まじか・・・・

オイラの場合はこの時ね⇒エキストラ
週末には、オイラもカミさん(何回も行くんだって

【ヒゲ親父】




ブラタモリ初登場県が確定した。
(NHKオンライン:ブラタモリより)
<発表>
富山県(なんと三日間放送です10/7、10/14、10/21放送)
やっと富山来たね

そしてテーマは・・・・
~黒部ダムは なぜ秘境につくられた?~
~北アルプス・立山は なぜ神秘的?~
なので、
ハズレ

テーマに予想ワードが入りませんでした。

くやし~

黒部か~!!!そうだよなぁ~富山といえば黒部だわな~。
水は水なんだけどねぇ・・・
<結果>
秋田県〇

和歌山県〇

高知県×

富山県×

<ルール>
2017/8/12現在にブラタモリでまだ放送されていない次の13県。
秋田県、山形県、富山県、福井県、岐阜県、和歌山県、滋賀県、山口県、鳥取県、徳島県、高知県、佐賀県、宮崎県
その回のテーマを予想しちゃう。

1県につき、テーマのワードを2つまであげる。
そのいずれかが当れば正解

2回に渡って行われそれぞれ別のテーマがある場合でも2つの予想ワードの一つがヒットすれば正解

そして13県のうち過半数の7県以上当れば合格としよう。
<予想>
秋田県・・・美人、湖⇒十和田湖はなぜ神秘の湖に?
山形県・・・盆地、最上川
富山県・・・富山湾、水⇒黒部ダムは なぜ秘境につくられた?
福井県・・・発祥、海
岐阜県・・・天下、境
和歌山県・・・高野山、熊野⇒高野山は空海テーマパーク!?
滋賀県・・・琵琶湖、商人
山口県・・・明治、毛利
鳥取県・・・砂丘、海
徳島県・・・踊り、巡礼
高知県・・・志士、幕末⇒高知の町はなぜ龍馬を生んだ?
佐賀県・・・干潟、近代
宮崎県・・・メッカ、伝説
はい2勝2敗です。
早く来い、福井

【ヒゲ親父】



昨日の加佐ノ岬に行ったもう一つの目的は、
あの斉藤由貴主演の「恋する女たち」
ラストシーンのお茶会の場所。
その崖上に行ってみたかったのだ。
そのラストシーンを連続で、

三人がお茶をたて、
なぜかゴロンと

ぐう~

なんで?

なぜか

遠くに

カメラが

離れていきます

今のように

ドローンなんて無い時代だから

ヘリコプターでの撮影でしょうね

これが

ラストシーン・・・

完

この場所は、

加賀市の橋立港近くの加佐ノ岬から

すこし南の

この岸壁です、映画のように赤の敷物を描いてみました。

昨日行った加佐ノ岬です。

灯台もありますよ。

そこから少し片野方面へ自然歩道を歩き

振り返って、加佐ノ岬を見る

こんなとこを入って行きます。

あそこか・・・

道がなくて行けそうにない・・・

あそこだよ!

あそこに赤い敷物があったんだ。

30年前には、きっとこういうルートがあったんだと思う。

映画の画像にはかすかに道が確認できます。
あまりにも危険すぎて、あの先には行きませんでした。
でも、まさにあそこで斉藤由貴や高井麻巳子がゴロンと寝たんです。

そう考えると凄くないですか?
【ヒゲ親父】
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あの斉藤由貴主演の「恋する女たち」
ラストシーンのお茶会の場所。
その崖上に行ってみたかったのだ。
そのラストシーンを連続で、

三人がお茶をたて、
なぜかゴロンと

ぐう~


なんで?

なぜか

遠くに

カメラが

離れていきます

今のように

ドローンなんて無い時代だから

ヘリコプターでの撮影でしょうね

これが

ラストシーン・・・

完

この場所は、

加賀市の橋立港近くの加佐ノ岬から

すこし南の

この岸壁です、映画のように赤の敷物を描いてみました。

昨日行った加佐ノ岬です。

灯台もありますよ。

そこから少し片野方面へ自然歩道を歩き


振り返って、加佐ノ岬を見る

こんなとこを入って行きます。

あそこか・・・

道がなくて行けそうにない・・・

あそこだよ!

あそこに赤い敷物があったんだ。

30年前には、きっとこういうルートがあったんだと思う。

映画の画像にはかすかに道が確認できます。
あまりにも危険すぎて、あの先には行きませんでした。
でも、まさにあそこで斉藤由貴や高井麻巳子がゴロンと寝たんです。

そう考えると凄くないですか?
【ヒゲ親父】



歴史の中には、チョイチョイ敗者の美学みたいなのがあって、
石川県内での歴史的出来事でいえば、源平時代の斉藤別当実盛がそれにあたるかな。
ほとんどの方はご存じない人物であろうから、
すこし解説を・・・。

<ネットより>
倶利伽羅合戦で木曽義仲軍に敗北した平家軍は南へ逃げ、京を出発した時に十万を数えていた兵力はすでに六万に減り、これに対して、勢いに乗る義仲軍は五万、両軍はそれぞれ入れ替わり立ち替わり数百騎が前に進み出て刃を交わしたが、すでに平家軍に敵を押し返す力は残っていなかった。
平家軍は加賀市の篠原まで退いた。ここですでに総崩れとなっていた平家軍の兵士は逃げ惑うばかりで、敵に立ち向かう気力のある者はほとんどいなかった。
こうした平家方の敗残軍のなかでただ一騎で敵と斬り結んだ武将がいた。
かって源義朝の命令で殺されそうになった、幼少の義仲を救った斎藤別当実盛である。

(拝借
)
実盛が情けをかけて命をかけて救った時、まだ二歳であった義仲は、立派な大将になって目の前の源氏軍を指揮していたのだ。
篠原の戦いにおいて、平家軍が逃げ落ちていく中、実盛はただ一騎踏みとどまりました。
木曽義仲軍の手塚光盛は、実盛に戦いを挑みます。実盛は、戦疲れもあり、老武者でもあったのでついに討たれます。光盛が首を持って行くと、大将の木曽義仲は、首が実盛であると気づきますが、髪や髭が黒であることに不審を持ちます。そこで、実盛と友人である樋口次郎を呼ぶと、「これは、斎藤別当です。斎藤別当は、つねづね、『60を過ぎて戦に向かうことがあれば、老武者だと人にばかにされるのも口惜しいので、髪や髭を染めて若々しくしようと思う。』と語っておりました。ほんとうに染めていたのですな。」と泣きながら語ります。実際に、首を洗うと白髪になりました。これを見た義仲は、「実盛は、命を助けてくれた恩人である。」といってさめざめと泣いたということです。
(拝借
)
こうして、篠原の合戦は幕を引き、平家軍は京の都に向かって敗走を重ねるのである。
白髪染めしているオイラも共感(なんちって
)
今日は午前中に運動会で体を動かした後、
<これで今日の結果がわかるでしょ・・・
小松の病院へお義母さんのお見舞いに行くことになっていたので、その先の加賀市まで車を進めました。
今回のブラオイラは斎藤別当実盛にこだわります。
まず実際に篠原の戦いがあった場所として、

篠原古戦場に着きました。

おお、あれは!

立派な松です。

看板ちゅうーもーく!

ここで実盛は孤軍奮戦し、そして倒れたのだ。

斎藤別当実盛・・・・。

そして、この地より少し東に行くと、

やはり源平の名がいろいろと、

ここに実盛の首を洗った首洗池がある。

あの泣ける場面があった場所。

ここで黒染めが落ちて、白髪や白髭があらわになったのよ。
ではその白髪を黒く染めた時に使った鏡が収められている場所があるのだ。
なんとその場所は、池の中である。
車で数キロ南下した深田町に



鏡池

こんな小さな池の中に、

実盛が髪を染めるのに用いた鏡が収められているのだ。

う~ん・・・

わからないなぁ・・・

ちなみに、こういうのがあります。

へぇ~、
そして次の場所に行こう・・・、
これはほとんどの人は行っていないはずである・・・
オイラはヒゲ親父、
マイナーマイナーなところが好きなのだ。

海の近くまで来た。

そこは加佐ノ岬がある。

敗走した平家軍は背後に崖が迫るこの地で・・・

ひっそりとこういう看板がある。

いってみる、ごくり・・・
またこのパターン・・・

まじかよ・・・

そして、あらわれた石碑。

篠原合戦戦死者埋葬地とある。
<ネット情報より>
平家軍はすでに戦意が喪失し交戦能力がなくほとんど無抵抗のまま大敗し、
加佐ノ岬には累々平家の戦死者の亡骸がならんだといわれている。
大正時代、ここ加佐ノ岬は、篠原の戦いの犠牲者がたくさん眠っているにもかかわらず、自然石が積み上げられているだけの状態でした。
そこで当時金沢にあった第九師団の神尾光臣中将が発議し、有志と謀って標石を建て、「篠原合戦戦死者埋葬地」という石碑を建てたのだそうです。
さて、そろそろ小松の病院に行く時間なので、
最後に斎藤別当実盛といえばの場所へ行く。
小松にある多太神社である。

義仲が戦勝祈願のお礼と実盛の供養のために、多太神社に実盛の兜を奉納した。

ほら、あの鏡を持っている実盛。

そしてこの神社には実盛の兜が納められているのである。

ちょうど、関係の方(おそらく神主さん)がおられたので、
拝観料三百円を払って見せて頂こうと思ったら、今から出掛けるとのことでNGだった。
まじか~い!
(☆いつか拝観、撮影し、当記事に追加予定・・・)

松尾芭蕉も元禄2年(1689年)、「奥の細道」の途中にこの地を訪れ、兜を見て一句読んでいるのだ。
かねがねオイラが言っている芭蕉の好きな句を最後に載せて終わりにします。

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石川県内での歴史的出来事でいえば、源平時代の斉藤別当実盛がそれにあたるかな。
ほとんどの方はご存じない人物であろうから、
すこし解説を・・・。

<ネットより>
倶利伽羅合戦で木曽義仲軍に敗北した平家軍は南へ逃げ、京を出発した時に十万を数えていた兵力はすでに六万に減り、これに対して、勢いに乗る義仲軍は五万、両軍はそれぞれ入れ替わり立ち替わり数百騎が前に進み出て刃を交わしたが、すでに平家軍に敵を押し返す力は残っていなかった。
平家軍は加賀市の篠原まで退いた。ここですでに総崩れとなっていた平家軍の兵士は逃げ惑うばかりで、敵に立ち向かう気力のある者はほとんどいなかった。
こうした平家方の敗残軍のなかでただ一騎で敵と斬り結んだ武将がいた。
かって源義朝の命令で殺されそうになった、幼少の義仲を救った斎藤別当実盛である。

(拝借

実盛が情けをかけて命をかけて救った時、まだ二歳であった義仲は、立派な大将になって目の前の源氏軍を指揮していたのだ。
篠原の戦いにおいて、平家軍が逃げ落ちていく中、実盛はただ一騎踏みとどまりました。
木曽義仲軍の手塚光盛は、実盛に戦いを挑みます。実盛は、戦疲れもあり、老武者でもあったのでついに討たれます。光盛が首を持って行くと、大将の木曽義仲は、首が実盛であると気づきますが、髪や髭が黒であることに不審を持ちます。そこで、実盛と友人である樋口次郎を呼ぶと、「これは、斎藤別当です。斎藤別当は、つねづね、『60を過ぎて戦に向かうことがあれば、老武者だと人にばかにされるのも口惜しいので、髪や髭を染めて若々しくしようと思う。』と語っておりました。ほんとうに染めていたのですな。」と泣きながら語ります。実際に、首を洗うと白髪になりました。これを見た義仲は、「実盛は、命を助けてくれた恩人である。」といってさめざめと泣いたということです。

(拝借

こうして、篠原の合戦は幕を引き、平家軍は京の都に向かって敗走を重ねるのである。
白髪染めしているオイラも共感(なんちって

今日は午前中に運動会で体を動かした後、



小松の病院へお義母さんのお見舞いに行くことになっていたので、その先の加賀市まで車を進めました。
今回のブラオイラは斎藤別当実盛にこだわります。
まず実際に篠原の戦いがあった場所として、

篠原古戦場に着きました。

おお、あれは!

立派な松です。

看板ちゅうーもーく!


ここで実盛は孤軍奮戦し、そして倒れたのだ。

斎藤別当実盛・・・・。

そして、この地より少し東に行くと、

やはり源平の名がいろいろと、

ここに実盛の首を洗った首洗池がある。

あの泣ける場面があった場所。

ここで黒染めが落ちて、白髪や白髭があらわになったのよ。
ではその白髪を黒く染めた時に使った鏡が収められている場所があるのだ。
なんとその場所は、池の中である。
車で数キロ南下した深田町に



鏡池

こんな小さな池の中に、

実盛が髪を染めるのに用いた鏡が収められているのだ。

う~ん・・・

わからないなぁ・・・

ちなみに、こういうのがあります。

へぇ~、
そして次の場所に行こう・・・、
これはほとんどの人は行っていないはずである・・・
オイラはヒゲ親父、
マイナーマイナーなところが好きなのだ。

海の近くまで来た。

そこは加佐ノ岬がある。

敗走した平家軍は背後に崖が迫るこの地で・・・

ひっそりとこういう看板がある。

いってみる、ごくり・・・

またこのパターン・・・

まじかよ・・・

そして、あらわれた石碑。

篠原合戦戦死者埋葬地とある。
<ネット情報より>
平家軍はすでに戦意が喪失し交戦能力がなくほとんど無抵抗のまま大敗し、
加佐ノ岬には累々平家の戦死者の亡骸がならんだといわれている。
大正時代、ここ加佐ノ岬は、篠原の戦いの犠牲者がたくさん眠っているにもかかわらず、自然石が積み上げられているだけの状態でした。
そこで当時金沢にあった第九師団の神尾光臣中将が発議し、有志と謀って標石を建て、「篠原合戦戦死者埋葬地」という石碑を建てたのだそうです。
さて、そろそろ小松の病院に行く時間なので、
最後に斎藤別当実盛といえばの場所へ行く。
小松にある多太神社である。

義仲が戦勝祈願のお礼と実盛の供養のために、多太神社に実盛の兜を奉納した。

ほら、あの鏡を持っている実盛。

そしてこの神社には実盛の兜が納められているのである。

ちょうど、関係の方(おそらく神主さん)がおられたので、
拝観料三百円を払って見せて頂こうと思ったら、今から出掛けるとのことでNGだった。
まじか~い!

(☆いつか拝観、撮影し、当記事に追加予定・・・)

松尾芭蕉も元禄2年(1689年)、「奥の細道」の途中にこの地を訪れ、兜を見て一句読んでいるのだ。
かねがねオイラが言っている芭蕉の好きな句を最後に載せて終わりにします。

【ヒゲ親父】


