てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

ブラオイラ#224(悲しき斎藤別当実盛編)

2017年10月01日 21時38分41秒 | 【ヒゲ親父】ブラオイラ
歴史の中には、チョイチョイ敗者の美学みたいなのがあって、
石川県内での歴史的出来事でいえば、源平時代の斉藤別当実盛がそれにあたるかな。

ほとんどの方はご存じない人物であろうから、
すこし解説を・・・。

<ネットより>
倶利伽羅合戦で木曽義仲軍に敗北した平家軍は南へ逃げ、京を出発した時に十万を数えていた兵力はすでに六万に減り、これに対して、勢いに乗る義仲軍は五万、両軍はそれぞれ入れ替わり立ち替わり数百騎が前に進み出て刃を交わしたが、すでに平家軍に敵を押し返す力は残っていなかった。
平家軍は加賀市の篠原まで退いた。ここですでに総崩れとなっていた平家軍の兵士は逃げ惑うばかりで、敵に立ち向かう気力のある者はほとんどいなかった。
こうした平家方の敗残軍のなかでただ一騎で敵と斬り結んだ武将がいた。
かって源義朝の命令で殺されそうになった、幼少の義仲を救った斎藤別当実盛である。

(拝借
実盛が情けをかけて命をかけて救った時、まだ二歳であった義仲は、立派な大将になって目の前の源氏軍を指揮していたのだ。
篠原の戦いにおいて、平家軍が逃げ落ちていく中、実盛はただ一騎踏みとどまりました。
木曽義仲軍の手塚光盛は、実盛に戦いを挑みます。実盛は、戦疲れもあり、老武者でもあったのでついに討たれます。光盛が首を持って行くと、大将の木曽義仲は、首が実盛であると気づきますが、髪や髭が黒であることに不審を持ちます。そこで、実盛と友人である樋口次郎を呼ぶと、「これは、斎藤別当です。斎藤別当は、つねづね、『60を過ぎて戦に向かうことがあれば、老武者だと人にばかにされるのも口惜しいので、髪や髭を染めて若々しくしようと思う。』と語っておりました。ほんとうに染めていたのですな。」と泣きながら語ります。実際に、首を洗うと白髪になりました。これを見た義仲は、「実盛は、命を助けてくれた恩人である。」といってさめざめと泣いたということです。

(拝借
こうして、篠原の合戦は幕を引き、平家軍は京の都に向かって敗走を重ねるのである。


白髪染めしているオイラも共感(なんちって



今日は午前中に運動会で体を動かした後、
   <これで今日の結果がわかるでしょ・・・

小松の病院へお義母さんのお見舞いに行くことになっていたので、その先の加賀市まで車を進めました。

今回のブラオイラは斎藤別当実盛にこだわります。

まず実際に篠原の戦いがあった場所として、


篠原古戦場に着きました。


おお、あれは!


立派な松です。


看板ちゅうーもーく!


ここで実盛は孤軍奮戦し、そして倒れたのだ。


斎藤別当実盛・・・・。



そして、この地より少し東に行くと、


やはり源平の名がいろいろと、


ここに実盛の首を洗った首洗池がある。


あの泣ける場面があった場所。

ここで黒染めが落ちて、白髪や白髭があらわになったのよ。


ではその白髪を黒く染めた時に使った鏡が収められている場所があるのだ。


なんとその場所は、池の中である。

車で数キロ南下した深田町に





鏡池


こんな小さな池の中に、


実盛が髪を染めるのに用いた鏡が収められているのだ。


う~ん・・・


わからないなぁ・・・


ちなみに、こういうのがあります。


へぇ~、



そして次の場所に行こう・・・、

これはほとんどの人は行っていないはずである・・・

オイラはヒゲ親父、
マイナーマイナーなところが好きなのだ。


海の近くまで来た。


そこは加佐ノ岬がある。


敗走した平家軍は背後に崖が迫るこの地で・・・


ひっそりとこういう看板がある。


いってみる、ごくり・・・

またこのパターン・・・


まじかよ・・・


そして、あらわれた石碑。

篠原合戦戦死者埋葬地とある。

<ネット情報より>
平家軍はすでに戦意が喪失し交戦能力がなくほとんど無抵抗のまま大敗し、
加佐ノ岬には累々平家の戦死者の亡骸がならんだといわれている。
大正時代、ここ加佐ノ岬は、篠原の戦いの犠牲者がたくさん眠っているにもかかわらず、自然石が積み上げられているだけの状態でした。
そこで当時金沢にあった第九師団の神尾光臣中将が発議し、有志と謀って標石を建て、「篠原合戦戦死者埋葬地」という石碑を建てたのだそうです。

さて、そろそろ小松の病院に行く時間なので、
最後に斎藤別当実盛といえばの場所へ行く。

小松にある多太神社である。


義仲が戦勝祈願のお礼と実盛の供養のために、多太神社に実盛の兜を奉納した。


ほら、あの鏡を持っている実盛。


そしてこの神社には実盛の兜が納められているのである。


ちょうど、関係の方(おそらく神主さん)がおられたので、
拝観料三百円を払って見せて頂こうと思ったら、今から出掛けるとのことでNGだった。
まじか~い!

(☆いつか拝観、撮影し、当記事に追加予定・・・)



松尾芭蕉も元禄2年(1689年)、「奥の細道」の途中にこの地を訪れ、兜を見て一句読んでいるのだ。

かねがねオイラが言っている芭蕉の好きな句を最後に載せて終わりにします。


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