え?わたしが人を殺したって?まあ、そう言われれば、そんな気もしますけ
ど。でも、わたし、人を殺した記憶がないんですよ。 ○✕▲夫ですか?そ
んな男、わたしは知りません。夫じゃないかって?夫の名前なんて、もう忘
れましたよ。自分の名前だって、もう憶えていないんですから。
老婆の名は筧(かけひ)千佐子、70歳である。
京都、大阪、兵庫3府県で起きた連続青酸死事件で、夫や内縁男性ら4人に
青酸化合物を飲ませて殺害したなどとして、殺人罪と強盗殺人未遂罪に問わ
れた。彼女の裁判員裁判の判決公判が京都地裁で開かれ、中川綾子裁判長は
求刑通り死刑を言い渡した。弁護側は死刑判決を不服として即日控訴した。
中川裁判長は判決理由で「金銭欲のための犯行で悪質」とし、「認知症など
を最大限考慮しても死刑を回避するべき事情はない」と断じたという。
朝日新聞は《被告の高齢化 認知症の増加に備えを》と題したきょうの社説
で、「被告に認知症の疑いがある場合、審理をどう進めるべきか」という問
題を投げかけている。この裁判では、「訴訟能力と責任能力の有無」が争わ
れ、弁護側は「訴訟能力も責任能力もない」として、無罪を主張した。これ
に対して中川裁判長は、「犯行時には善悪を判断する責任能力があり、訴訟
能力も問題ない」として、求刑通り死刑の判決を下した。
この判決は妥当なのかどうか。う〜ん、たしかに、難しい問題である。朝日
は「各地の裁判所や検察、弁護士会が精神科医を交えた議論の場を設けるな
どして、まず課題を共有することが急務である」と締め括り、お茶を濁して
いるが、これでは(「審理をどう進めるべきか」という問題に答えたとして
も)量刑の問題は置き去りにされたに等しい。
問題を単純化するために、次のようなケースを考えてみよう。これも実際に
あった事例である。
大阪市都島区のスーパーで2015年5月に万引きをして窃盗罪で有罪判決
を受けた同区の男性(72)が、事件当時は認知症で責任能力がなかったと
して、大阪地裁に裁判をやり直す再審を求める方針を決めた。男性は判決直
後に認知症と診断され、同年12月に起こした万引き事件では「認知症の影
響で心神喪失の疑いがある」として無罪を言い渡された。弁護人は5月の事
件について「検察は精神鑑定で責任能力を厳密に判断すべきだった」と指摘
し、無罪判決を求める方針。
(毎日新聞 9月23日付)
問題は、この男性が「前頭側頭(ぜんとうそくとう)型認知症」で、08年
ごろに発症した可能性があると診断されたことである。「前頭側頭型認知症」
とは、主に脳の前部にある「前頭葉」が萎縮して発症するもので、衝動を抑
制して理性的に振る舞ったり、他人の気持ちを推し量ったりする機能が低下
し、万引きなどの触法行為や過食、人格の変化などの影響があるとされる。
アルツハイマー型認知症と異なり、初期段階では物忘れが目立たず、本人に
病気の自覚もないため、認知症と気付きにくいのが特徴だが、治療法は確立
していないとされている。
他のケースなら、病気が犯罪の原因とされた場合、被告は責任能力なしとさ
れ、一般の刑務所ではなく、医療刑務所に収容されるが、この場合は、犯罪
の原因とされる病気(前頭側頭型認知症)に対して、治療法が確立していな
いのである。治療が不可能とされる被告を、「医療」の対象とすることは妥
当なのかどうか。
万引きの常習犯を社会から隔離する方便として「医療」を利用するのだとい
うなら、解らなくはない。この男が万引きを繰り返さないよう、家族が付きっ
きりで看守らねばならないというのでは、家族の負担も大変だろう。医療刑
務所送りにすれば、その分コストはかさむが、その費用を家族の負担とすれ
ばよい。そうなっても、自分たちが看守るよりは軽い負担で済むから、家族
はこちらを望むはずだ。
さて、筧千佐子被告の場合はどうか。彼女の場合は、認知症とはいえ、前頭
側頭型認知症とは違うから、病気が犯行の原因になったとは言えない。とす
れば、犯行の主体は彼女であり、犯行時、彼女には責任能力があったと考え
なければならない。裁判の過程で、認知症が進行し、訴訟能力を喪失したと
しても、判決を引き受ける能力を失ってしまっているとまで考えることはで
きない。犯行時の記憶を失ったからといって、犯行時の自分と、今現在の自
分とのつながりが絶たれるわけではない。2つの〈自己〉をつなげるのは、
今現在の〈自己〉だけではなく、また社会でもあるからである。
ど。でも、わたし、人を殺した記憶がないんですよ。 ○✕▲夫ですか?そ
んな男、わたしは知りません。夫じゃないかって?夫の名前なんて、もう忘
れましたよ。自分の名前だって、もう憶えていないんですから。
老婆の名は筧(かけひ)千佐子、70歳である。
京都、大阪、兵庫3府県で起きた連続青酸死事件で、夫や内縁男性ら4人に
青酸化合物を飲ませて殺害したなどとして、殺人罪と強盗殺人未遂罪に問わ
れた。彼女の裁判員裁判の判決公判が京都地裁で開かれ、中川綾子裁判長は
求刑通り死刑を言い渡した。弁護側は死刑判決を不服として即日控訴した。
中川裁判長は判決理由で「金銭欲のための犯行で悪質」とし、「認知症など
を最大限考慮しても死刑を回避するべき事情はない」と断じたという。
朝日新聞は《被告の高齢化 認知症の増加に備えを》と題したきょうの社説
で、「被告に認知症の疑いがある場合、審理をどう進めるべきか」という問
題を投げかけている。この裁判では、「訴訟能力と責任能力の有無」が争わ
れ、弁護側は「訴訟能力も責任能力もない」として、無罪を主張した。これ
に対して中川裁判長は、「犯行時には善悪を判断する責任能力があり、訴訟
能力も問題ない」として、求刑通り死刑の判決を下した。
この判決は妥当なのかどうか。う〜ん、たしかに、難しい問題である。朝日
は「各地の裁判所や検察、弁護士会が精神科医を交えた議論の場を設けるな
どして、まず課題を共有することが急務である」と締め括り、お茶を濁して
いるが、これでは(「審理をどう進めるべきか」という問題に答えたとして
も)量刑の問題は置き去りにされたに等しい。
問題を単純化するために、次のようなケースを考えてみよう。これも実際に
あった事例である。
大阪市都島区のスーパーで2015年5月に万引きをして窃盗罪で有罪判決
を受けた同区の男性(72)が、事件当時は認知症で責任能力がなかったと
して、大阪地裁に裁判をやり直す再審を求める方針を決めた。男性は判決直
後に認知症と診断され、同年12月に起こした万引き事件では「認知症の影
響で心神喪失の疑いがある」として無罪を言い渡された。弁護人は5月の事
件について「検察は精神鑑定で責任能力を厳密に判断すべきだった」と指摘
し、無罪判決を求める方針。
(毎日新聞 9月23日付)
問題は、この男性が「前頭側頭(ぜんとうそくとう)型認知症」で、08年
ごろに発症した可能性があると診断されたことである。「前頭側頭型認知症」
とは、主に脳の前部にある「前頭葉」が萎縮して発症するもので、衝動を抑
制して理性的に振る舞ったり、他人の気持ちを推し量ったりする機能が低下
し、万引きなどの触法行為や過食、人格の変化などの影響があるとされる。
アルツハイマー型認知症と異なり、初期段階では物忘れが目立たず、本人に
病気の自覚もないため、認知症と気付きにくいのが特徴だが、治療法は確立
していないとされている。
他のケースなら、病気が犯罪の原因とされた場合、被告は責任能力なしとさ
れ、一般の刑務所ではなく、医療刑務所に収容されるが、この場合は、犯罪
の原因とされる病気(前頭側頭型認知症)に対して、治療法が確立していな
いのである。治療が不可能とされる被告を、「医療」の対象とすることは妥
当なのかどうか。
万引きの常習犯を社会から隔離する方便として「医療」を利用するのだとい
うなら、解らなくはない。この男が万引きを繰り返さないよう、家族が付きっ
きりで看守らねばならないというのでは、家族の負担も大変だろう。医療刑
務所送りにすれば、その分コストはかさむが、その費用を家族の負担とすれ
ばよい。そうなっても、自分たちが看守るよりは軽い負担で済むから、家族
はこちらを望むはずだ。
さて、筧千佐子被告の場合はどうか。彼女の場合は、認知症とはいえ、前頭
側頭型認知症とは違うから、病気が犯行の原因になったとは言えない。とす
れば、犯行の主体は彼女であり、犯行時、彼女には責任能力があったと考え
なければならない。裁判の過程で、認知症が進行し、訴訟能力を喪失したと
しても、判決を引き受ける能力を失ってしまっているとまで考えることはで
きない。犯行時の記憶を失ったからといって、犯行時の自分と、今現在の自
分とのつながりが絶たれるわけではない。2つの〈自己〉をつなげるのは、
今現在の〈自己〉だけではなく、また社会でもあるからである。