論語を現代語訳してみました。
子罕 第九
《原文》
子曰、法語之言、能無從乎。改之爲貴。巽與之言、能無説乎。繹之爲貴。説而不繹、從而不改。吾末如之何也已矣。
《翻訳》
子 曰〔のたま〕わく、法語〔ほうご〕の言〔げん)、能〔よ〕く従〔したが〕う無からんや。之〔これ〕を改〔あらた〕むるを貴〔たっと〕しと為〔な〕す。巽与〔そんよ〕の言、能く説〔よろこ〕ぶ無からんや。之を繹〔たず〕ぬるを貴しと為す。説びて繹ねず、従って改めず。吾〔われ〕 之を如何〔いかん〕ともする末〔な〕きのみ。
《現代語訳》
孔先生はまた、次のように仰られました。
自分にとって、進むべき "道" のことばを知り得たならば、それに従ってみることが大事である。そして、その "道" を進むために己をより磨いていくことを心せよ。
また、自分にとって、気持ちが和むことばにふれ合えたのであれば、素直に喜ばれよ。そして、そのことばの "真意" をたずねてみることを忘れてはならぬぞ。
けれども、喜んでも真意をたずねようともしない、従うだけで己を磨こうともしないのであれば、これ以上私には、〈だまって背中を見せることでしか、〉師として努めることができないのじゃよ、と。
〈つづく〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
この語句の意味するところとしては、とくに最後の『吾末如之何也已矣。』の語訳で、「これ以上私には、どうしてやることもできない」とするのが一般的な解釈ですが、しかし、師である孔子が、そんな無責任なことをいうはずはないとも思われますし、また孔子の気持ち(本音)をさらに考えてみれば、あとは孔子自身がだまって実践しながら、その後ろ姿をみせるより他がない、と捉えることもできると思われます。
なお、このことは、雍也第六の『中人以上には上を語るべし』の中の「その道を志し励もうともしない者には、多くを申すでないぞ」や、『知る者は好む者に如かず』の中の「道理・道徳を知識として得たとしても、それを実践している者には到底およぶことはない」とあるように、あとは師、または兄弟子である者がだまって実践するより他がないのだよ、とこういうふうに捉えることもできます。
そしてこれは、わが国でいえば、父親がこどもに対する接し方(愛情表現)ともいえますし、そんなことからも、孔子がいかに、すべての弟子たちに対して、愛情を注いでいたのか、そうしたことも感じられる語句といえるのではないでしょうか。
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考