いまから30年以上も前、「良い子、悪い子、普通の子」というようなフレーズをよく耳にしました。
まさに少年期だった私としては、周りの大人たちに「良い子にしとかなあかんねんど!」とよく言われたものでしたから、できるかぎり良い子でいてようと思っていました。
親の言うことをよく聞き、先生には好かれ、周囲の大人たちには愛想を振りまくのです。
ですが勉強が大の苦手でありました。
宿題よりも、まずは学校から帰宅すると洗濯物を取り入れ、たたみます。そして便所掃除にお風呂掃除です。ほかに犬の散歩や階段の掃除、草刈りにお米を洗います。それらを兄弟3人で分担していました。
正直、宿題をやるよりも楽しかったですから、苦とは感じていなかったと思います。
そんなわけでありますから、当然宿題を忘れる日は多かったのですが、親や先生に叱られたことは一度もありませんでした。
通知簿を渡されるときはいつもドキドキし、親に見せるときはハラハラしていたように思いますが・・・
ですから、アニメ「ドラえもん」に出てくる "のび太" というキャラがいますが、いつも宿題を忘れ先生に叱られるシーンが多かったように思うのでありますが、「遊ぶことに必死になりすぎて宿題を忘れてんやから、叱られて当たり前やんけ!」というのが当時の感想だったように思いますので、 "のび太は悪い子" だと認識していたと思います。
しかし、遊ぶことに必死になり宿題を忘れることがそんなに悪いことなのでしょうか?
「宿題をやると言ってやらへん、家事手伝いをやるといってやらへん、遊びの約束をしといてすっぽかす、こうしたことが本当の意味での悪い子ちゃうんかな?」
と中学生くらいに考えさせられたことがありましたが、その年頃にもなりますと、クラブ活動や塾通いなどで、アニメもほとんど見なくなっていきましたから、「ま!気にすることもないか!」というように冷めた思考が勝ってしまい、あまり深く考えることもなく学生時代を終えることとなります。
私自身は良くもなく悪くもなく無難に学生時代を謳歌できたことで、これが普通なんだと思うようになりました。
ですから他人様に「どんな学生やった?」と聞かれれば、「普通の学生やったで」というようになっていましたから、自分にとっての "普通" が根付いてしまっていたのです。
そんな折り、他人様を観てみると、「あれは普通ちゃうな!」などと罵るようになっていました。
このように私自身の過去を振り返ってみた場合、こうした子ども心の感性の変化というものは、観るアニメや育つ環境などによりひとりひとり違うわけですから、当然のこととして "普通" などというものが成立するはずもありません。
なのに自分は "普通" だと思い込んでしまうことで、自分とは異なる考え方の人に対して誹謗中傷の対象とみなしてしまうわけであります。
私が学生時代を終えてからも、子どもたちを取り巻く環境は目まぐるしく変化していきました。
ゆとり教育に代表されるような、完全週休二日制やら、3.14が約3に変わったやら、仲良く手をつないで徒競走するやら・・・など。
一国の教育制度でありながら、どうしてこんなにも目まぐるしく変化するのでしょうか?
同じ価値観を共有することができる世代の幅というものが狭くなれば、それだけ "普通" というものの価値観も多様化していきます。
せめて100年周期くらいで変化することが望ましいと思うのでありますが、戦後まもなく制定された教育システムがあまりに杜撰であったために、その見直しや是正が急がれることとなりました。
しかもその見直しや是正自体が間違っていたわけですから、当然のこととして、悪循環なものに陥ってしまうわけであります。
このように杜撰な戦後教育システムにより、世代間で争う構図が出来上がってしまいました。
しかもその世代間幅は年々狭くなってきており、10年ひと昔から5年ひと昔、3年ひと昔のようになってきています。
価値観の共有できる幅が狭くなるというのは、それだけ共感しあえる仲間が減少することを意味します。
意図的なのか、偶発的なのかはわかりませんが、こうした日本人同士が共感しあえない世の中、つまりは多様化された日本人が増えてしまえば、さらに個人主義が進んでしまいます。
まさに社会主義者やフェミニストたちが思い描いた通りの世の中なのです。
このままでは、日本の伝統や文化・習慣はことごとく失っていくことでありましょう。
互いに尊重しあい、そして助け合うといった、これまでわが国伝統の精神であります "和" というものを、これからも引き継いでいかなければならないのではありますが、しかしながら、現代日本の実情をみてみますと、残念ながら儚いことだと認識するより他ないように感じてしまいます。