論語を現代語訳してみました。
子罕 第九
《原文》
子曰、可與共學、未可與適道。可與適道、未可與立。可與立、未可與權。唐棣之華、偏其反。而豈不爾思。室是遠而。子曰、未之思也夫。何遠之有。
《翻訳》
子 曰〔のたま〕わく、与〔とも〕に共〔とも〕に学〔まな〕ぶ可〔べ〕きも、未〔いま〕だ与に道〔みち〕に適〔ゆ〕く可からず。与に道に適く可きも、未だ与に立つ可からず。与に立つ可きも、未だ与に権〔はか〕る可からず、と。唐棣〔とうてい〕の華〔はな〕、偏〔へん〕として其〔そ〕れ反〔はん〕せり。豈〔あに〕 爾〔なんじ〕を思〔おも〕わざらんや。室〔しつ〕 是〔こ〕れ遠〔とお〕し、とあり。子 曰〔のたま〕わく、未だ之〔これ〕を思わざるか。何〔なん〕の遠きことか之〔こ〕れ有らん。
《現代語訳》
孔先生はまた、次のように仰られました。
同門といえども、共に学を修めることができたとしても、志す仁道が等しいというわけではない。
また、志す仁道が等しかった場合でも、そこから知り得る天命や大道の中身が等しいというわけではない。
さらには、知り得た天命や大道の中身が等しかった場合でも、その伝え方が等しいというわけではない、と。
ここで先生が詩を一句、歌われました。
唐棣〔とうてい〕の華〔はな〕、偏〔へん〕として其〔そ〕れ反〔はん〕せり。豈〔あに〕 爾〔なんじ〕を思〔おも〕わざらんや。室〔しつ〕 是〔こ〕れ遠〔とお〕し、とあり。
孔先生は最後に、次のように仰られました。
未だにこの詩を歌ってみては、亡き顔回の姿が思い浮かばれて仕方がないのじゃよ。現世(現在を生きる者)と黄泉〔よみ〕の世(過去に生きた者)と、如何に遠くにあろうともな、と。
〈おわり〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
この語句の意味するところは、孔子は弟子たちに「人は皆、生命あるかぎりは、志すものや知り得るものには限りがないし、それと比例して、人は皆、決して同等ではないのだよ」、ということを伝えたかったのかも知れません。
またそれは、語句の中の詩を、顔回についての孔子の思いとしてその思いを巡らせてみることで「顔回のように死んでしまい、その思いを言葉や行動で表すことができなくなったとしても、それでも、その思いを代弁する後継者がいることで、顔回は現世で生き続けることができるのだよ」と、最後に孔子は述べたんではないだろうか、ということが窺えてきます。
そして、生きている間でしか伝えることができない儚さと、死んでなお伝えることができる喜びと、それは天命や大道を得たにも関わらずに、それでも死を意識しだした孔子の最大の悩み事であったのかも知れませんね。
さて、これにて子罕第九の現代語訳は終いとなりますが、少し間が空いた関係かもしれませんが、最期の語句の訳には相当時間がかかってしまいました。この子罕第九の節では、孔子は何を一番に伝えたかったのか…、何度も何度も、これまでの語訳を読み返すうちにひとつの答えがみつかったわけでありますが、それはまた追々にでも綴ってみようかなと思います。
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考