論語を現代語訳してみました。
八佾 第三
《原文》
子曰、居上不寛、爲禮不敬、臨喪不哀、吾何以觀之哉。
《翻訳》
子 曰〔のたま〕わく、上〔かみ〕に居〔お〕りて寛〔かん〕ならず、礼を為〔な〕して敬〔けい〕せず、喪〔も〕に臨〔のぞ〕んで哀〔かな〕しまずんば、吾〔われ〕 何〔なに〕を以〔もっ〕て之〔これ〕を観〔み〕んや。
子 曰〔のたま〕わく、上〔かみ〕に居〔お〕りて寛〔かん〕ならず、礼を為〔な〕して敬〔けい〕せず、喪〔も〕に臨〔のぞ〕んで哀〔かな〕しまずんば、吾〔われ〕 何〔なに〕を以〔もっ〕て之〔これ〕を観〔み〕んや。
《現代語訳》
孔先生が、次のように仰られました。
政治的指導者(士や師とつく職業も含む)の立場でありながら、下の他人〔ひと〕には厳しく、礼儀は正しいけれども気持ちがこもらず、喪に服していても哀しまない。
私はこれまで、こういう人物にたくさんの "善" なるものを見聞〔けんぶん〕させてきたが、全く意味がなかったよ、と。
八佾 第三 おわり
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考にしているが、決して両先生を否定するものではない