先の参院選において、議席を獲得した新政党である『れいわ新撰組』と『NHKから国民を守る党』に対する評価として、「ポピュリスト」及び「ポピュリズム」という言葉で片づけようとする論者があとを絶たないわけでありますが、本当にそうなんでしょうか。少しばかり考えてみたいと思います。
■ そもそも「ポピュリスト」及び「ポピュリズム」とは
この言葉の語源としては、詳しく述べると長くなるので省きますが、要は、日本の近代化の流れとともに、西洋から伝わった考え方であり、この「ポピュリスト〔大衆迎合〕」及び「ポピュリズム〔大衆迎合主義〕」ということにおいては、 "好ましい状態ではない" というのが、彼らが主張する西洋的な発想です。
ではなぜ、 "好ましい状態ではない" のか。
まず、この「ポピュリスト」及び「ポピュリズム」の反対の立場にあるものとして、特定の優位的な立場にある人々が主体〔ブルジョワジー的発想〕となっている場合が多く、その呼称については多種多様ではありますが、ここでは「体制派」として一括りにしたいと思います。
そして、この体制派というのは、その多くがエリート層(高学歴者や富裕層など)で占められており、一般大衆(社会的弱者や一般労働者)を統括しなければならないとする使命感や責任感によって、一般大衆との上下関係が構築されています。
ですから、体制派の人々からポピュリスト及びポピュリズムをみた場合は、いつも自分たちよりも劣る存在でなければならないのあって、体制を維持するためには常に自分たちの富を増幅させ、地位や名誉というものを求めながら行動しなければならないのです。
しかしながら、低学歴者や貧困層が主体となる社会現象を最も嫌い、こうした現象を「衆愚」といって批判します。
まさに、現在の日本社会においても、この西洋かぶれに陥った体制派たちによって、ポピュリスト及びポピュリズムという言葉でもって、一般大衆を侮辱する流れが横行しているのです。
■ 「ポピュリスト」及び「ポピュリズム」の台頭は自然現象
わが国は、君主制民主制度を大日本帝国憲法の第4条で掲げており(君民一体の精神)、さらには議会制民主主義の名の下においてこれまで150年以上にわたり政治が行われてきました。
しかしながら昭和20年の終戦以降は、天皇陛下は国民統合の象徴としてのお立場を、時の権力者たちによって悪用されつづけ、君主制民主制度が蔑ろにされてしまったことにより、君民一体の精神は完全に失われてしまいました。
この権力者とは、まさに体制派の者たちのことをいい、さらには愛国者と呼ばれるような者までが、権力者に媚びを売るといった状態に陥いり、そして、天皇陛下の祈りの真意を知ろうともしない自称愛国者たちの堕落ぶりは、日の丸や君が代を利用するだけの似非保守(ネトウヨ)が蔓延するきっかけともなったのです。
しかしながら、多くの日本人の心奥底には、まだまだ君民一体の精神が残っているということを感じずにはいられないのです。
その証拠として、似非保守や似非愛国者に傾倒することなく、真実がなんであるのかを真剣に考え、巨大な既得権益と対峙しなければならいと考える国民が存在するということが、何より物語っている、と言わざるを得ないのです。
そして、こうした国民こそが、天皇陛下〔=神々〕の真の祈りが "大御宝" として現されたものであり、そのことをもって自然現象といって憚ることはできないはずであります。
さらに、君と民が一体となることを最も嫌ってきたとするは、左派系のみに非ず、西洋思想に陥った似非保守や似非愛国者たちも所詮は同じことであり、何をもって万世一系が正しいというのか。
こんなことは、皇室の方々が話し合いをされお決めになられれば良いのであり、決して軽はずみに口外することではないはずであります。
そして、さらに問いたい。
仮に女系天皇がご即位されれば、皇室を敬うことなく反日にでもなられるつもりか?と。
♪Konjaku Monogatari (Stories modern and ancient) - Eri Sugai