私の問いかけに、八十歳を超え、元教員だというお婆さんは答えてくれた。
問いかけは、ゆとり教育に関することだったが、お婆さんは、
「教師は世間知らずですから。」
と、その一言だけだった。
私は直ぐ様、その言葉の意味を考えてみた。
そして、教師は世間知らずで良いのかも・・・と思うようにもなった。
世間がどうあれ、教師は子供たちを公平に扱わなければならない。子供たちの家庭事情が違おうとも同じことだろう。
世間の都合に合わせ子供たちを指導することよりも、教師自身が掲げる理念の下で指導することの方が大切なのだと、そうお婆さんは言っているように感じた。
さらに言えば、世間を知らなければならないのは親の方だということも理解出来た。
世間話という、「場の空気に従え!」的な話しか出来ない親たちが増えた近年、世間の言葉の意味を深く知ることから始めなければならないのだ。
以下はWikipediaより、[社会と世間]というのを引用してみた。
社会と世間
問いかけは、ゆとり教育に関することだったが、お婆さんは、
「教師は世間知らずですから。」
と、その一言だけだった。
私は直ぐ様、その言葉の意味を考えてみた。
そして、教師は世間知らずで良いのかも・・・と思うようにもなった。
世間がどうあれ、教師は子供たちを公平に扱わなければならない。子供たちの家庭事情が違おうとも同じことだろう。
世間の都合に合わせ子供たちを指導することよりも、教師自身が掲げる理念の下で指導することの方が大切なのだと、そうお婆さんは言っているように感じた。
さらに言えば、世間を知らなければならないのは親の方だということも理解出来た。
世間話という、「場の空気に従え!」的な話しか出来ない親たちが増えた近年、世間の言葉の意味を深く知ることから始めなければならないのだ。
以下はWikipediaより、[社会と世間]というのを引用してみた。
社会と世間
世間とは、自分と利害関係がある相手、もしくは将来的に利害関係が発生する可能性がある相手を指す。
①贈与・互酬の関係
②長幼の序
③共通の時間意識
④差別的で排他的
⑤神秘性
①~⑤の条件を全て満たしている場合、それを世間と称し、人に価値と規範を強制する安定した空間となる。1つでも条件を外していれば、それを空気と呼び、人に価値と規範を強制するのには、不安定である。
社会は、socialの訳語であり、1878年前後に考案された。個人は、individualの訳語であり、1888年前後に考案された。西洋流の法治国家を樹立するために、必要な訳語であった。それ以前の日本には、社会個人はなく、あるのは世間と人であった。
社会・個人という概念は、キリスト教の世界観に立脚している。西洋で神と向かい合うのは、個人であり、個人に価値と規範を強制するのは、神であった。日本で人に価値と規範を強制するのは、世間であった。価値と規範を受け入れた人には、世間は保護を与えた。
この書籍の著者は、劇作家であり、子役のオーディションに臨席する機会が多い。しかし、1980年代前半までは、子役志願の子供に「君のクラスはどういうクラス?」という質問が成り立ったのだが、1980年代後半のバブル期前後から成り立たなくなったとする。代わりに「君のグループは、どういうグループ?」と聞かなければならなくなったという。従来、子供にとっての世間とは、クラスだったわけだが、それが崩壊している、21世紀に入ってからは、クラスについて聞くのは、もっと意味のないものになった、と主張する。いじめの問題にしても、リーダーがおり、いじめの標的と目的を定めた従来型のいじめはなくなり、いじめの対象の輪番制もあるという。
背景には、大人の世界の変化がある。高度経済成長期から一億総中流期にかけて、農村出身者の多くは、農村から都市に流入し、地域共同体は世間として人に価値と規範を強制する機能を失った。都市化である。都市に移住した農村出身者は、会社に就職し、会社に新たな世間を求めた。会社は、終身雇用と年功序列で、これに応えた。しかし、バブルが崩壊し、会社も世間として機能しなくなった。企業城下町は、企業が海外に移転し、空洞化した。能力主義とグローバル化である。
1990年代半ばに、日本は米国流の新自由主義を導入した。しかし、アメリカ人が、自立した個人と考えるのは、誤りである。アメリカ人は、いざとなったらキリスト教の神にすがる。貧困層が、キリスト教原理主義に走りやすいのも、そのためである。貧富の差が大きいにもかかわらず、公的保険制度さえない米国では、保守的キリスト教会(いわゆる福音派)が、救貧運動に走り回る。日本人のほとんどはキリスト教徒ではないから、神にもすがれないし、今や世間にもすがれない。神も世間もない丸裸の人が、自分の身を守るために会得した手段が、「空気を読む」ことであった。相手・周囲の顔色を見て自分の言動の適否を決めることしか、できなくなっていた。
関連する単語としてKY(空気が読めない)という単語も登場したが、一般の使用例の増加より一部マスメディア主導で流行語として確立した経緯があり、"空気を読む"のが正しい事を前提とした批判的な単語であるという点にも注意が必要。またこの単語以外にも対義的な用例として鈍感力という単語が用いられる事もあり、単純に空気を「読む」か「読まない」かに対して正当性を論じることは難しい側面がある。
山本七平の『「空気」の研究』では『文芸春秋』(昭和58年8月号 吉田満監修『戦艦大和』)を引用しながら戦艦大和内での状況を紹介しつつ、"「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れない。"と言わしめている。
①贈与・互酬の関係
②長幼の序
③共通の時間意識
④差別的で排他的
⑤神秘性
①~⑤の条件を全て満たしている場合、それを世間と称し、人に価値と規範を強制する安定した空間となる。1つでも条件を外していれば、それを空気と呼び、人に価値と規範を強制するのには、不安定である。
社会は、socialの訳語であり、1878年前後に考案された。個人は、individualの訳語であり、1888年前後に考案された。西洋流の法治国家を樹立するために、必要な訳語であった。それ以前の日本には、社会個人はなく、あるのは世間と人であった。
社会・個人という概念は、キリスト教の世界観に立脚している。西洋で神と向かい合うのは、個人であり、個人に価値と規範を強制するのは、神であった。日本で人に価値と規範を強制するのは、世間であった。価値と規範を受け入れた人には、世間は保護を与えた。
この書籍の著者は、劇作家であり、子役のオーディションに臨席する機会が多い。しかし、1980年代前半までは、子役志願の子供に「君のクラスはどういうクラス?」という質問が成り立ったのだが、1980年代後半のバブル期前後から成り立たなくなったとする。代わりに「君のグループは、どういうグループ?」と聞かなければならなくなったという。従来、子供にとっての世間とは、クラスだったわけだが、それが崩壊している、21世紀に入ってからは、クラスについて聞くのは、もっと意味のないものになった、と主張する。いじめの問題にしても、リーダーがおり、いじめの標的と目的を定めた従来型のいじめはなくなり、いじめの対象の輪番制もあるという。
背景には、大人の世界の変化がある。高度経済成長期から一億総中流期にかけて、農村出身者の多くは、農村から都市に流入し、地域共同体は世間として人に価値と規範を強制する機能を失った。都市化である。都市に移住した農村出身者は、会社に就職し、会社に新たな世間を求めた。会社は、終身雇用と年功序列で、これに応えた。しかし、バブルが崩壊し、会社も世間として機能しなくなった。企業城下町は、企業が海外に移転し、空洞化した。能力主義とグローバル化である。
1990年代半ばに、日本は米国流の新自由主義を導入した。しかし、アメリカ人が、自立した個人と考えるのは、誤りである。アメリカ人は、いざとなったらキリスト教の神にすがる。貧困層が、キリスト教原理主義に走りやすいのも、そのためである。貧富の差が大きいにもかかわらず、公的保険制度さえない米国では、保守的キリスト教会(いわゆる福音派)が、救貧運動に走り回る。日本人のほとんどはキリスト教徒ではないから、神にもすがれないし、今や世間にもすがれない。神も世間もない丸裸の人が、自分の身を守るために会得した手段が、「空気を読む」ことであった。相手・周囲の顔色を見て自分の言動の適否を決めることしか、できなくなっていた。
関連する単語としてKY(空気が読めない)という単語も登場したが、一般の使用例の増加より一部マスメディア主導で流行語として確立した経緯があり、"空気を読む"のが正しい事を前提とした批判的な単語であるという点にも注意が必要。またこの単語以外にも対義的な用例として鈍感力という単語が用いられる事もあり、単純に空気を「読む」か「読まない」かに対して正当性を論じることは難しい側面がある。
山本七平の『「空気」の研究』では『文芸春秋』(昭和58年8月号 吉田満監修『戦艦大和』)を引用しながら戦艦大和内での状況を紹介しつつ、"「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れない。"と言わしめている。