以前、本屋さんで立ち読みをしていた時のこと。
どこかの会社主催だと思うのだが“こども川柳”なるものの公募があり、その入選作品の中でこのような詩が紹介されていた。
はだかで 歯をみがくと おちんちんが ゆれます
とても素晴らしい。
応募者の名前まではチェックしていなかったのだが、常人とは思えない程の才能を感じる事が出来る作品だ。
風刺的なセンスを駆使した作句法が、現在に至る短詩型文芸域の方法論を超越さえしているといえよう。
この詩の中にある「裸で歯を磨く」という所で、容易に温暖な季節を想い浮かばせる説得力を披露し、この時代における一般家庭の開放感が一語たりとも無駄のない言葉遊びによって表現されている。
そして次に描かれる「揺れるおちんちん」が果てしない清涼感と共に僕らを空想の世界へといざなってくれるのだ。
残念ながら作者は解らないのだが、恐らく平成に名を刻む程の詩を詠みあげる事は間違いないだろう。
将来、松尾芭蕉と肩を並べて文学史に紹介されるのも簡単に想像する事ができる。
いや、ひょっとしたら芭蕉を超えちゃてるかも。
このように子供という生き物は、時として大人では理解出来ない程の想像力を発揮する事がある。
以前、近所に住む小学校校長から「体育倉庫の壁面にイラストを描いてほしい」という仕事の依頼を引き受けた時、出向いた仕事先でそのような事を思い知らされる出来事があった。
午前の授業中、静かな校庭の片隅にある殺風景な体育倉庫前で、僕は事前に打ち合わせをした“明るく健全なイメージのイラスト”を一心不乱に描き続けていた。
まずは“サッカーをしている少年”や“ブランコを楽しむ少女”など、白いチョークで下書きし、発色が良くなるように塗りつぶす部分を白いペンキで下塗り。
そして少し時間を置いて色付けを始めた頃、お昼休憩の時間なのだろう、小学生達が一斉に校庭へとなだれ込んできた。
「ねぇねぇ。なにしてるの~?」
予想はしていたものの、早速ガキ共が近寄ってきた。
僕は一人の大人として、子供達の手本となるべく丁寧な対応を心掛けた。
「校長先生にたのまれて絵を描いてるんだよー」
「すげー!画家だ!おいっ!この人画家だぞー!」
「あっ!おい、さわっちゃダメだっ。このペンキついたらとれなくなるぞ!」
「げっ!マジー!とれなくなるんだってよー」
さっそく悪い予感。
「ねぇねぇ、これって何の絵?」
「これはサッカーボールだよ」
「じゃあ、これはー?」
「ボールを蹴ってる男の子だよー」
「じゃあ、これは~?」
「えーっと、・・・」
「あぁっ!!!」
「なに!? どーした!」
「ペンキがついちゃった~」
「だからさわっちゃダメだって言ったじゃん!」
「・・・さわってないもん。もたれただけだもん」
肩にペンキを付けた男の子が言い訳にならない言い訳をしながら、申し訳なさそうに僕の所へやってきた。
僕はイライラする気持ちを押さえ、付いたペンキをシンナーで拭きとってあげる。
そして増え続けるギャラリーに対し、少し大きな声で提案した。
「またペンキが付くとイケナイから、この線より入っちゃダメだよー。それから、気が散るから静かにしててねー」
僕はそう言いながら足で地面に線を引き、わいわい騒いでいるガキ共を無視するかのように仕事を再開。
「・・・・クスクス・・・・いてっ」
「シーっ、喋るなって言ってたじゃん。怒られるぞ」
「あっ、押すな、バカ」
「あ~、いま線より入った~」
「おめーが押したんだろ!」
「押してないもんっ」
まじでウザい。
しばらく時間が過ぎ、見飽きたガキが減り始めてやっと静かになり始めた頃に、1人の男の子が僕へと近付いてきた。
「ペンキが付いちゃった~」
「なっ!・・・線から入っちゃダメだって言ったじゃん!」
「はいってないよ~」
「入らなきゃペンキ付かないでしょぉ」
「空中だもん」
やられた。
その男の子は絵を触るため、線の手前から決死のダイブをしたのだ。
人間は常にメリットとデメリットを秤にかけて行動をする生き物である。
この場合に関して言うと、ダイブした事による怪我の恐れと、ペンキが手に付いて取れなくなってしまうという事と、絵に触った事で僕に怒られるというデメリットがあり、メリットなどどこにも見当たらない。
その結果、当然このような行動はしないハズ。
しかし子供という生き物は、それらの多大なデメリットをはねのけてしまう程の何だかわからないメリットを見いだしてしまうのだ。
はたして彼はどんなメリットを見つけ、何を手に入れようとしたのだろうか?
達成感か?それともただの根性試しか?
それは今現在、大人となってしまった僕では残念ながら理解する事が出来ない。
しかし想い返せば、自分でも理解し難い行動はあった。
なぜあの時、無差別にピンポンダッシュなんてしたのだろう。
なぜあの時、うんこにどれだけ近付けるか競い合ったのだろう。
それらはきっと、何かの確信を持って行動していたに違いない。
しかしそれが何であったのか?
そして、何が欲しかったのか?
それは自分でさえ、子供の頃の自分でしか解らない事だ。
「子供心」
それは誰にでも一度は宿り、そして消えていく。
そんな、とても尊い存在なのである。
どこかの会社主催だと思うのだが“こども川柳”なるものの公募があり、その入選作品の中でこのような詩が紹介されていた。
はだかで 歯をみがくと おちんちんが ゆれます
とても素晴らしい。
応募者の名前まではチェックしていなかったのだが、常人とは思えない程の才能を感じる事が出来る作品だ。
風刺的なセンスを駆使した作句法が、現在に至る短詩型文芸域の方法論を超越さえしているといえよう。
この詩の中にある「裸で歯を磨く」という所で、容易に温暖な季節を想い浮かばせる説得力を披露し、この時代における一般家庭の開放感が一語たりとも無駄のない言葉遊びによって表現されている。
そして次に描かれる「揺れるおちんちん」が果てしない清涼感と共に僕らを空想の世界へといざなってくれるのだ。
残念ながら作者は解らないのだが、恐らく平成に名を刻む程の詩を詠みあげる事は間違いないだろう。
将来、松尾芭蕉と肩を並べて文学史に紹介されるのも簡単に想像する事ができる。
いや、ひょっとしたら芭蕉を超えちゃてるかも。
このように子供という生き物は、時として大人では理解出来ない程の想像力を発揮する事がある。
以前、近所に住む小学校校長から「体育倉庫の壁面にイラストを描いてほしい」という仕事の依頼を引き受けた時、出向いた仕事先でそのような事を思い知らされる出来事があった。
午前の授業中、静かな校庭の片隅にある殺風景な体育倉庫前で、僕は事前に打ち合わせをした“明るく健全なイメージのイラスト”を一心不乱に描き続けていた。
まずは“サッカーをしている少年”や“ブランコを楽しむ少女”など、白いチョークで下書きし、発色が良くなるように塗りつぶす部分を白いペンキで下塗り。
そして少し時間を置いて色付けを始めた頃、お昼休憩の時間なのだろう、小学生達が一斉に校庭へとなだれ込んできた。
「ねぇねぇ。なにしてるの~?」
予想はしていたものの、早速ガキ共が近寄ってきた。
僕は一人の大人として、子供達の手本となるべく丁寧な対応を心掛けた。
「校長先生にたのまれて絵を描いてるんだよー」
「すげー!画家だ!おいっ!この人画家だぞー!」
「あっ!おい、さわっちゃダメだっ。このペンキついたらとれなくなるぞ!」
「げっ!マジー!とれなくなるんだってよー」
さっそく悪い予感。
「ねぇねぇ、これって何の絵?」
「これはサッカーボールだよ」
「じゃあ、これはー?」
「ボールを蹴ってる男の子だよー」
「じゃあ、これは~?」
「えーっと、・・・」
「あぁっ!!!」
「なに!? どーした!」
「ペンキがついちゃった~」
「だからさわっちゃダメだって言ったじゃん!」
「・・・さわってないもん。もたれただけだもん」
肩にペンキを付けた男の子が言い訳にならない言い訳をしながら、申し訳なさそうに僕の所へやってきた。
僕はイライラする気持ちを押さえ、付いたペンキをシンナーで拭きとってあげる。
そして増え続けるギャラリーに対し、少し大きな声で提案した。
「またペンキが付くとイケナイから、この線より入っちゃダメだよー。それから、気が散るから静かにしててねー」
僕はそう言いながら足で地面に線を引き、わいわい騒いでいるガキ共を無視するかのように仕事を再開。
「・・・・クスクス・・・・いてっ」
「シーっ、喋るなって言ってたじゃん。怒られるぞ」
「あっ、押すな、バカ」
「あ~、いま線より入った~」
「おめーが押したんだろ!」
「押してないもんっ」
まじでウザい。
しばらく時間が過ぎ、見飽きたガキが減り始めてやっと静かになり始めた頃に、1人の男の子が僕へと近付いてきた。
「ペンキが付いちゃった~」
「なっ!・・・線から入っちゃダメだって言ったじゃん!」
「はいってないよ~」
「入らなきゃペンキ付かないでしょぉ」
「空中だもん」
やられた。
その男の子は絵を触るため、線の手前から決死のダイブをしたのだ。
人間は常にメリットとデメリットを秤にかけて行動をする生き物である。
この場合に関して言うと、ダイブした事による怪我の恐れと、ペンキが手に付いて取れなくなってしまうという事と、絵に触った事で僕に怒られるというデメリットがあり、メリットなどどこにも見当たらない。
その結果、当然このような行動はしないハズ。
しかし子供という生き物は、それらの多大なデメリットをはねのけてしまう程の何だかわからないメリットを見いだしてしまうのだ。
はたして彼はどんなメリットを見つけ、何を手に入れようとしたのだろうか?
達成感か?それともただの根性試しか?
それは今現在、大人となってしまった僕では残念ながら理解する事が出来ない。
しかし想い返せば、自分でも理解し難い行動はあった。
なぜあの時、無差別にピンポンダッシュなんてしたのだろう。
なぜあの時、うんこにどれだけ近付けるか競い合ったのだろう。
それらはきっと、何かの確信を持って行動していたに違いない。
しかしそれが何であったのか?
そして、何が欲しかったのか?
それは自分でさえ、子供の頃の自分でしか解らない事だ。
「子供心」
それは誰にでも一度は宿り、そして消えていく。
そんな、とても尊い存在なのである。
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