歯科医物語

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

「ヤなヤツ~!」竹内まりや&山下達郎夫妻 第一印象は最悪だった

2022-11-13 22:38:16 | ☆山下達郎 大好き
「ヤなヤツ~!」竹内まりや&山下達郎夫妻 第一印象は最悪だった“サイン帳事件”と、「何かが起きた」スタジオの夜





《『硝子の少年』秘話》「最初から特徴のある声と歌いぐせが」山下達郎がKinKi Kidsの2人に感じていた“音楽的ポテンシャル”  から続く 【写真】この記事の写真を見る(4枚) ( #3 より続く)

竹内まりやというアーティストを一言で表すと…

名曲「駅」が収録されたアルバム「REQUEST」(1987年)

 


――「責任」とおっしゃるところに、プロデューサー気質を感じます。 山下「80年代までの僕のジレンマとして、プロデュースした他の人のアルバムの売り上げが、自分のソロを上回ることがないという悩みがあったんです。その結界を打ち破ってくれたのが、竹内まりやが1987年に出した『REQUEST(リクエスト)』。あれが初のミリオンセラーを記録して、ようやく自分も一人前のプロデューサーになれたと、胸をなでおろしました。どっかのスポーツ新聞の記者みたいに、喜びにチャチャを入れる人もいましたけどね。『(売り上げで)カーチャンに負けて悔しいだろう』なんてね。余計なお世話だよね(笑)」 ――まりやさんの話題が出たのでうかがいますが、プロデューサー山下達郎から見て、竹内まりやというアーティストを一言で表すとすれば。 山下「色々な意味で、とても例外的なスタンスの人です。結婚後2年ほど活動を休んだ時期があって、復帰作の準備を始めた頃、『この期間に書き溜めていた曲があるんだけど』って、カセットのデモを持って来た。最初に聞かされたのが『プラスティック・ラヴ』。

 

腰を抜かして、『こんな曲が書けるのに、なんで今までやらなかったんだ』『チャンスがなかったから』……。その後も続々と持って来て、これなら全曲彼女の作詞作曲でアルバム一枚作れるんじゃないかということになって、当時としては画期的な試みで完成したのが復帰第1作の『VARIETY(ヴァラエティ)』でした」



 

デモ・テープの作り方だけは指南していた

――休業中に曲作りしていらしたのを達郎さんがご存じなかったというのも、不思議と言えば不思議な気がしますが。 山下「“英語をブラッシュアップしたい”と言って、英語学校に通っていたりしたんですよね。82年に河合奈保子の『けんかをやめて』を書いたり、あと堀ちえみとかアイドルへの曲提供はしていたけど、それには僕は一切関知してなかったんです。アレンジもやってないし。当時は僕がツアーに出ずっぱりだったという背景もあります。83年には自分の『MELODIES(メロディーズ)』

 


作って、村田和人くんのアルバム作って、それでツアーでしょう。その間、あっちはあっちで家でゴソゴソやっていた。 

 

 デモ・テープの作り方だけは指南していたんです。自分でデモを作りたいというので、4チャンネルのカセット・デッキとリバーブ・マシン、あとはリズム・マシンの使い方を教えはしました」 ――にしても、いつの間に、という感じではあった。 山下「まだ子どもがいなかったからね。家の防音部屋にこもって、色々と作ってたみたいです」





本人が望んだのとは違う役回りが負担になり、一時休業に
――「プラスティック・ラヴ」は今や海外でも大人気曲。ユーチューブを中心に、80年代の日本のポップスを再発見する“シティ・ポップ”の流れを代表する名曲として、非公式ながら再生回数は2400万回超と言われています。 山下「キャリア的に見ても、興味深い人なんです。いわゆる“歌手”の定義として、歌だけ歌う人、歌って作詞する人、作曲もする人、作詞も作曲も出来る人、あとは作曲家や編曲家が歌に挑戦するパターンなど、いくつかに分類出来るんだけど、彼女の場合、そのすべてを経験している。デビューしたのは23歳の時だけど、あの頃はピンク・レディーと、たのきん・聖子ブームのちょうど端境期で、アイドル歌手不在の時代だったため、本人が望んだのとは違う、アイドル的な役回りをさせられた。それが精神的・肉体的に負担になり、一時休業につながる。でもその経験は後々役立って、十数年のブランクが空いた後、2000年にツアー復帰することができたのも、あの時代に過酷なツアーをこなしていたためです」 ――タフな一面も兼ね備えた女性でもある。 山下「そもそも高校生で交換留学して、イリノイのど真ん中、シカゴから車で3時間くらいかかるローカルタウンで1年過ごしてるわけだから。日本人が一人もいないような土地で。英語で夢を見るところまで行かないと、と言ってましたからね」 ――そんなまりやさんが、書き手としては「プラスティック・ラヴ」のような、ある意味虚飾に満ちた世界を描き出されるというのも、不思議なところです。 山下「あれはイマジネーションだから」
昭和の時代の地方出身の人が抱く東京への思い
――物語であると。 山下「物語です。創作の世界。時代的にディスコが背景にあって、ハロゲンライトが妖しく輝くというような歌詞が出てくる。本人的には、脚本家がドラマを仕立てるような感覚に近いそうで、そういう架空の世界を歌った作品は多いですよ。苦い恋愛や、都会のいちシーンを切り取った歌」 ――「駅」とか。 山下「『駅』は傑作です。




 
もともと中森明菜のために書いた曲をセルフカヴァーしたものです」 ――アイドルに対する座付き作者的な感覚があったんですね。 山下「まりやも作家性が強いんですよ。その萌芽は、アン・ルイスが結婚するというので書いた『リンダ』あたりからなんだけど。




 
『駅』に関して言うと、舞台は、かつての東横線渋谷駅ですよね。そこには、田舎から都会に出てきた人間ならではの視点も盛り込まれている」 ――達郎さんとはまた違った角度から、東京を見ていると。 山下「彼女には彼女なりの東京への思い、憧れというのがあって、60年代に母親に連れられて東京によく遊びに来ていたそうなんです。帝国劇場に宝田明・有馬稲子時代の『風と共に去りぬ』を観に行ったり、銀巴里で美輪明宏さん、当時の丸山明宏さんが歌うシャンソンを聴いていたり。それが小学生の頃だそうです」




――ずいぶんおませな情操教育ですね。 山下「そういうものの影響が大きい。僕には想像もつかないような、東京への思い入れがある。銀座や丸の内に対してとか。昭和の時代の地方出身の人が抱く東京への思いには、格別なものがあるんですよね。そういう意味で、日本って狭いようで広い。僕自身、そういう女性と身近に出会ったことがなかったので、新鮮な驚きがありました」
東京生まれ東京育ちの人間は知ったかぶりをするが…
――まりやさんは島根出身でいらっしゃいますよね。 山下「島根県出雲市大社町。お父さんは地元の老舗旅館の四代目で、地元の町長を長年務められた、大変立派な方です」 ――一方の達郎さんは東京・池袋育ち。家庭環境も真逆に見えますが、齟齬はなかったのでしょうか。 山下「一緒になってみたら、むしろ楽でした。東京というメガロポリスが生み出す女性というのは、自我が強い。東京は“見栄”の都市で、東京生まれ東京育ちの人間はとかく、知らないことを知らないと言えないんです。知ってるふりを装って、家に帰ってから辞書を引くとか(笑)。まあ、その知ったかぶりがお互いの切磋琢磨を生むという面もあるんだけど。  うちの奥さんには、とにかくそういう見栄が全然なかった。知らないことを“知らない”と普通に言えるんです。それまでの人生、東京の人としか付き合ってなかったから、“知らない”と素直に口に出せる女性相手だと、こんなに楽になるものかと(笑)。一気にバリアが下がりました。
初対面でサインを求められるが、プロ意識で断る
 第一印象は、お互い最悪だったんですけどね。もはや語り草になってますけど、僕のところのレコード会社と契約することになったということで、デビュー前の彼女が渋谷のエピキュラスに連れて来られたことがあったんです。村上“ポンタ”(秀一)のセッションの日」 ――伝説的なライヴですね。終了後、ポンタさんがお縄になったという(笑)。 山下「いや、お縄になったのはリハーサルを終えた直後で、本番にはいませんでした(笑)。それはともかく、そこにまりやが来て、“今度デビューすることになりました”って挨拶しに。その時に、サイン帳を持ってきて、サインしてくれと。それで僕はたしなめたんですよ。“これからデビューするような立場の人間が、同業者にサイン頼んだりしちゃいけない!”って」 ――それは感じ悪いです(笑)。達郎さん、おいくつの時ですか。 山下「25だったかな。嫌いだったんですよ、そういうアマチュアリズム」 ――まりやさんの反応は。 山下「ヤなヤツ~!って思ったって(笑)」 ――で、サインはされなかった。 山下「しませんよ。もちろん」




――他の人はしてるのに(笑)。 山下「坂本くんだったら、ホイホイしてる(笑)」 ――サイン帳のそのページは、白いままだったんですね。 山下「僕、そういうところのピューリタニズムは強いんです。僕なりのプロ意識ですよね」
ツアーで留守がちだった実家にかかってきた1本の電話
――最悪だった当初の出会いから、お互いの印象が変わっていったのは。 山下「音楽的なつきあいは別でしたから。彼女のファースト・アルバム用に『夏の恋人』という曲を僕が提供して、2作目の『UNIVERSITY STREET』では、彼女が書いた『涙のワンサイデッド・ラヴ』を編曲してほしいというので、僕が一人多重録音でトラックを作ったりした。あれはいい曲だった。当時僕らが所属していたRCAって、僕や大貫妙子、EPO、桑名正博、まりやもそうですけど、いわゆるポップス系と、和田アキ子やクールファイブ、西城秀樹といった歌謡曲系、二つの勢力に分かれていて。歌謡曲勢への対抗意識があった分、ポップス系同士はそれなりに和気あいあいとした雰囲気があったんです。  そんな中、彼女がアン・ルイスのために『リンダ』を書いて、それのレコーディングで、どうも思うようにいかないと、電話がかかってきたんです。あの頃はまだ練馬の実家に住んでいて、ツアーで留守がちだったんだけど、その時はたまたま在宅していた」 ――携帯がない時代ですもんね。 山下「助けてくれというので、スタジオに行って、僕一人でコーラスをやった。朝の2時3時までかかったのかな。そしたら……」 ――そういう(笑)。 山下「あちらに何かが起きたんでしょう」 ――あちらに起きた(笑)。
根っこのルサンチマンを突き抜けてきたのは…
山下「よもやあの人と結婚することになるとは、最初夢にも思いませんでしたけどね。だから、なんでもそうなんですよ。人間の縁なんてものは不思議です」 ――それは達郎さんもそうだし、まりやさんもそう。 山下「そうですね。まったくそうです」 ――普通、初対面でそこまでにべもなくサインを断られたら(笑)。 山下「みんな優しいからね。僕はダメなんですよ。女性に対するトラウマも強いから。根っこにルサンチマンがある。そう簡単には、人に心は許さない(笑)」 ――そのルサンチマン・バリアを、まりやさんだけが突き抜けてきた。 山下「それはやっぱり東京の人じゃないから。田舎の人ならではの素朴さ。繰り返しになりますけど、疲れないんです」  「スプリンクラー」「Paper Doll」山下達郎の初期名曲に秘められた「超マゾヒスティックな女性観」の理由  へ続く




 
 
コメント

木村拓哉「ぎふ信長まつり」は「非常に大事だったんで。僕が行きたいと思って行かせていただいたので」

2022-11-13 22:33:07 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
木村拓哉 「ぎふ信長まつり」は「非常に大事だったんで。僕が行きたいと思って行かせていただいたので」

木村拓哉
 俳優の木村拓哉(50)が13日放送のTOKYO FM「木村拓哉 Flow supported by GYAO!」(日曜前11・30)に出演。6日に参加した「ぎふ信長まつり」について「行きたいと思って行かせていただいたので」と語った。
 

 
コメント

映画「ターミナル」のモデル死去 イラン出身

2022-11-13 22:25:15 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
映画「ターミナル」のモデル死去 イラン出身、パリの空港で18年生活

シャルル・ドゴール空港のターミナルで、ひげをそるメフラン・カリミ・ナセリさん=2004年8月、パリ郊外(AFP時事)
 【ボビニー(仏)AFP時事】パリ郊外のシャルル・ドゴール空港で18年にわたって生活したイラン出身の男性メフラン・カリミ・ナセリさんが12日、空港ターミナルで死去した。
 

 

 
コメント

新刊紹介

2022-11-13 05:20:57 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
 

 
 




 
 

 


 


 

 

 
コメント