ラヂオ惑星モルファス

戦争をどう詠むのだろう・・・昨日の続き

昨日の投稿を読み返して・・・大失敗!

第一・・・俳句と戦争について考えていた部分が欠落していました。

第二・・・自分で読んでも、何が言いたいのか回りくどくてさっぱり分からないと思いました。

ということで、承前・・・というか書き直してみました。

さて、そうすると私が戦争の報道などに接して感じたことを俳句にしていくことになります。しかし、今の戦争・・・政治や外交の結末としての戦争をどう詠めば良いのでしょう。イデオロギーや歴史的経緯など踏まえられるような知識もありませんし、指導者達がどのような人間であるかも分からずに、印象だけで人を評価も出来ません。だからといって、戦争を「破壊行為」とか「殺人行為」という『現象』として捉えて俳句にする・・・には何かためらうものがあります。さらに、戦争の結末には必ず政治的、国際的な評価が伴います。当然敗者の論理には一顧だにされず、勝者が「正しい者」となっていくのが常でしたが、深く切り込むこともせず断罪することも出来ません。

その中でも、紛れもなく真実の姿、そうした戦争の中にあっても変わらない人の心情を取り上げる。紛れもなくそこにある人々の真実を詠むことは必要でしょう。でも、同時代であるからこそ前段で述べたように「一面的な捉え方に陥らずに把握する」のは極めて難しい行為だなと感じています。それは、やはり「戦争の当事者ではない」「自分の戦争ではない」からこそ、ある人にとっての戦争の真実を表現することが難しいのだと思います。俳句に限らず、詩でも小説でも・・・今叙述できるのは、どちらか一方に身を置かざるを得ない人に寄せて書くのでしょう。

特に俳句では、最も短い短詩型であるが故に、自分が使った言葉であっても、その言葉の持つ意味や広がりや力を読み手にある程度任せていくことになります。自分の意図に反した読み方をされることを覚悟しなければなりません。作者の意図を読み手に切り込める表現できる言葉の力や季語の学習などが必要でしょう。

まあ、私ごときが手すさびに詠める事柄ではない、でも、その様な戦争の中での人や自然をどのように受け止めていくか・・・は考えていくべき課題ではあると思います。


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