ラヂオ惑星モルファス

後期高齢者となって



誕生日を迎え、後期高齢者に突入した。それにしてもこの「後期高齢者」という言葉、なんとも情けない表現ではないか?だからと言って代りの言葉を直ぐに思いつけるものではないけれど。
「間もなく死にゆくもの」という裏側の意味を十分に込め、政治家や優秀な官僚や若い社会学者が考え付きそうな「優秀な言葉」ではないか。
日本だけではないが、社会構造の大きな変化の中では、嘗てのように老人は存在そのものが社会に貢献する資源ではなく、今や社会の負担になる「負の資源」となっている。

多分、現在60代以下の世代は「目上」という言葉は聞いたこともないだろう。私とて、小学生時代「目上の人には・・・・・・」などと言われると、世の中背の高い人ばかりなのか!等々くだらない反発をしたものだ。
就職した後上司となったのは「特攻くずれ」だった。4年後、異動先の上司はなんと「特高くずれ」だった。目上だろうが何だろうが全く尊敬できない人たちばかり。彼らを軽蔑してきた私が、今、若い世代から軽蔑され邪魔にされたとしてもそれは因果応報というものだろう。
そもそも、人類だけでなく、すべての生物が「進化」できたのは「死」というものがあったからだ。先の世代が滅び次の世代が新しい形質を獲得して行って初めて進化が出来る。生物学的にはその通りなのだろうが・・・・・

個人的には、昨年後半、地元の市で実施しているがん検診を受けて以降、「死」は比較的身近な存在となった。文学青年崩れだった若い頃、「死」は議論の対象であったけれど、結局は観念的なものでしかなかった。多分、ある若い社会学者が『高齢社会の唯一の解決法は明かであってそれは高齢者の「自決」である』というような議論をしていたと聞いたが、やはりそれは若い社会学者にとってまだ「死」が観念的な存在でしかないことの証明であろうか。
そして、日本だからこその議論でもあるだろう。例えば、現在のパレスチナでこのような観念的な議論は存在しないだろう。死が目の前にある時に死の議論は物質的な議論にしかならないであろう。しかも、むしろ「生きる」ことへ向かっての議論だろうか。
パレスチナがようやく停戦に漕ぎつけたニュースを聞いた。
何時も「死」が隣にある・・・のは観念的にはその通りであるが、実際に自分の隣に具体的な存在として「それ」があるのはいかなる恐怖であるのか、戦後80年を経て、私を含め日本人には全く遠いものとなっていることを、まずは自覚しなければならないだろう。

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