心の音

日々感じたこと、思ったことなど、心の中で音を奏でたことや、心に残っている言葉等を書いてみたいと思います。

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語6

2005-03-09 22:33:07 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(3月9日)を要約します。
1「先輩殴った」
 左打ちに転向していた中3の秋、川崎は決断のときを迎えていた。
 「はっきり言って、あの子にとって甲子園はどうでもよかったみたいですね。私たちは連れていってもらえるかな・・なんて思ったりしていたんですけど(笑)」。息子がレギュラーとして活躍するようになり、父・正継も楽しみにしていた高校野球の聖地。両親がひそかな期待を抱いていたころ、川崎は野球部の幼なじみ、村原に打ち明けていた。「おれ、甲子園に興味はない。それより将来プロになるために野球をやりたい」
 細身の体から、あふれんばかりのエネルギーを発していた。「左」で躍動し始めた中3の春、身長はレギュラーの中で2番目に低い162センチ。しかし果敢な姿勢は周囲も驚くほどだった。村原は「もう時効でしょうから」と前置きしたうえで当時の記憶をたどった。
 「基本的に真面目なんですけど、やんちゃな一面もあるんですよ。ああ見えてケンカっぱやいところがあって・・」。中2のある日、ちょっとしたことからサッカー部のキャプテンと「いざこざ」に発展した川崎は、そのまま殴り合いにもつれ込んだという。2人の身長差は10センチ以上。川崎には分が悪いと思われたが、何と勝者はその川崎だった。決して弱いものいじめのケンカではない。だからこそ、底知れぬパワーがますます周囲を引きつけていった。
 信じた道をまっすぐに進むということ。情に深く、友人付き合いも大切にした一方で、フラフラと流されることはまずなかった。家業で電気工事店を営む正継には、そんな息子の姿が頼もしく映っていた。「今でもそうなんですが、いい意味で頑固なところを持っているんですよ。あの時もそんな感じでした」
2「計画曲げぬ」
 学校が終わり、そろそろ川崎も家に戻ってくる時間。その日、重富中は試験期間中で部活動も休みと聞いていた。自宅に併設した事務所にトントン・・と階段を上がる音が届き、息子が帰宅したことを耳で確認。同級生の友達2人が訪ねてきたのは、それから間もなくしてのことだった。
 「呼んでも呼んでも返事がない。どこかに出かけたと思って、仕方なくその子達を帰したんです。すると・・」。直後2階から降りてきた川崎は、いぶかしがる正継に向かってこう返答した。「もう今日は遊ばないって言ってるんだから」。学校で遊ぼうと誘われていたが、その日は最初から勉強すると決めていた。そのプランを理由もなく崩すことはできない。それが川崎の答えだった。
 誰が何と言おうと将来はプロ。挑戦もせずにあきらめるつもりなどサラサラない川崎は、高校生活もその「通過点」と考えていた。俊足好打でならした「金の卵」には県内のいくつかの有力校から誘いもあったが、川崎の眼中にはなし。代わりに選んだのは、甲子園出場経験ゼロの鹿児島工業高校だった。
3「もっと上を」
 進路決定が迫っていた1月中旬。鹿児島工業野球部監督の上原と会った。「甲子園に行きたいのかと聞くと、それもいいけど・・と首を横に振る。じゃあ、どうしたいのか?と聞くと、自分はもっと上を目指している」と。もっと上とは、もちろんプロ。その時15歳の心意気を初めて知った上原はさらに続けた。「どうしてウチでやりたいんだ?と聞くと、ここは伸び伸びさせてくれると聞いたから、と言うんです。ああそうかと思いました。それがプロを目指すあの子の考え方だったんです1」。
 後に川崎はこんなことを上原に漏らしたという。「ボクは高校まで野球を伸び伸びとやりたい。それから社会人や大学に行って、プロで通用する体をつくる。甲子園もいいけど、そのためだけに野球をやることはできない」
 卒業式の日。寂しさの中で村原と交わした笑顔のエール。「甲子園に行けたらいいね。お互いに頑張ろう。オレも将来プロになれるように頑張る」。がっちり握った手のひらに、揺らぐことのない信念が詰まっていた。(山本泰明氏の記事より)