心の音

日々感じたこと、思ったことなど、心の中で音を奏でたことや、心に残っている言葉等を書いてみたいと思います。

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語7

2005-03-17 18:40:51 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(3月16日)を要約します。
1「試験前夜徹夜」
 薩摩半島を海沿いに伸びるJR日豊線。眼下に大海を望んで走るこの電車が、高校生になった少年の「勉強部屋」だった。自宅の最寄りの姶良駅から、西鹿児島駅までおよそ25分。
 「入学する前に、寮に入ることもできるぞ、と言ったんです。しかしあの子は、寮に入ったら夜、練習ができないからといって、通学を選んだんです」。
 川崎の中学時代から勧誘に動き、自らが監督を務める野球部に預かることになった上原義孝は、その強い意志を宿した目に驚かされたという。入寮を拒んだのは、少しでも多くの練習時間を確保するため。「時間というのは誰にでも平等に流れるもの。その中で、どういう使い方をするかなんです。」プロ第一線に踊り出た今でもそう口にする川崎は、高校時代からその考えを実践していた。部の練習が終われば、中学時代に父・正継に買ってもらったネットに向かって深夜までティー打撃。通学中には電車の中でカバンの中から書物をピックアップ。野球に関する書物はいつも携帯し、頭の中からも鍛えていた。
 「野球をやるからといって、勉強をおろそかにしたくない。テストで悪い点数を取ると嫌な思いをする。頑張れば結果はついてくる」。卒業するまで3年間担任だった田中健司にそう告げたこともある川崎は、学業のほうでも常にトップクラスの成績をマーク。テスト前になると徹夜で机に向かっていたこともあった。
2「振り子打法」
 電気工事店を営む正継に第2種電気工事士の国家試験を受けたいと申し出たのは2年の時。「厳しいぞ」と言う父親に、息子は「分かっている」と鋭い言葉を返して答えた。試験は筆記と、30分以内に配線を完成させる技能の2つ。自宅で開かれたマンツーマンの講座に、川崎は必死で食らいついてきたという。そして試験終了。クラスの半分もクリアできなかった難関を、川崎は1回で合格。幼い頃、努力で野球人としての道を切り開いた喜びと同じ感覚がそこにあった。
 電車の中という「勉強部屋」で読んでいた本がどんなものかとある時、上原が聞いたことがある。「それは野球を力学的に分析したものでした。打撃の際に、どうやればボールに力が伝わるのか、そういったところを自分なりに研究していたみたいです」
 かつてのイチローをほうふつとさせる「振り子打法」は、当時、川崎が自分なりの視点で編み出したもの。決してまねだけではないこの打撃フォームで、高校時代は常にチームの中心にいた。打つばかりではなく、投げては「たまに打撃投手をやると、誰も打てなかった」と上原も脱帽。ただし甲子園出場ゼロの鹿児島工業高校では注目度も低く、プロへの道のりはまだまだ険しかった。
3「家族が応援」
 3年の春。生徒達が本格的に進路を考え始める頃、川崎は両親と真剣な顔で向き合っていた。「ボクは将来プロになりたい。そのために大学に行かせてください。4年間で体をつくって、プロテストを受ける。それでダメならあきらめもつくし、その時は家を継ぐつもりです」
 父・正継は「やるだけやらせてみたらいいんじゃないか」と容認。もちろん母・絹代も考えは同じだった。全国的な建築不況がニュースになった当時、電気業界にもその余波が直撃。川崎家も例外ではなかったが、絹代は必死の行動に出た。
 比較的余裕のある午前中に5時間、近所の精肉店にパートとして通い始めた。もちろん川崎を大学に送り出すための費用を捻出するためだ。息子が自ら選んだ本気の目標だから、本気で受け止める必要があった。正継は「好きなゴルフも控えめにする」と、二人三脚でサポート。すべては夢の実現のためだった。
 周囲の後押しを受けて走り出した川崎の目には、もうプロしか映っていなかった。無名のプレイヤーをスカウトが追いかけ始めたのも、ちょうどそのころのことだった。(山本泰明氏の記事より)