心の音

日々感じたこと、思ったことなど、心の中で音を奏でたことや、心に残っている言葉等を書いてみたいと思います。

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語8

2005-03-24 18:46:16 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(3月23日)を要約します。
1「放つオーラ」
 今や球界を代表する人気選手に成長した川崎は、高校時代からきらめくようなオーラを放っていた。プロ入り直前、鹿児島工業高校3年の体育祭。仲間の大声援を受けて「科」対抗リレーに登場した川崎は、歯を食いしばり、腕を振り、鬼のような形相でトラックを駆け抜けていった。
 「先頭とは30メートルぐらいだったでしょうか。宗の追い上げで、最後は3人が並走するような感じでゴールに飛び込みました。優勝が決まった後には、‘ムネノリコール‘の大合唱ですよ」と高校時代の担任の田中健司先生。
 2年の時の同じ体育祭の「科」対抗リレー。すでに百メートル走の校内記録もマークするなど注目されていた川崎は、当然のようにエースランナーとして登場した。期待を一身に集めて臨んだ本番で、張り切りすぎてまさかの転倒。そのことがよほど悔しかったのか、文集にも「ボクがこけてしまったせいで・・・」と、自らを責めるような言葉を並べ立てたという。
 本気でプロを目指し、ひたすら練習に取り組んでいたことをクラスメートも知っていた。だからあえて学級委員長などにも選ばなかった。気配りのできる人気者。田中の目にそう映っていたスター候補生は、周囲のサポートも感じながらひたむきに夢を追いかけていた。
2「3回戦敗退」
 高校最後の夏。鹿児島工業高校史上初の甲子園切符をかけた戦いは、川崎にとっても重要な意味を持つものだった。強豪校との練習試合を重ねるうちに、相手を視察に来ていたはずのスカウトも無名のプレイヤーの野球センスに注目するようになり、そんなスカウト陣がネット裏から目を光らせる中で、県大会はスタートした。
 初戦。7回コールドで下したこの試合で、川崎は猛打爆発の火付け役となる。2回に俊足を生かしたランイング本塁打。もともと甲子園には大きな興味のなかった川崎にとって、この大会はアピールの絶好機。すぐそこでプロのスカウトに見られていることでが、純粋な18歳を刺激した。
 大会そのものは3回戦で敗退。だがプロ入りが現実味を帯びてきた川崎に、もう別の道は考えられなかった。3年になった直後、大手電力会社からの就職の誘いを「プロになるために大学に行きたい」と固辞。鉄のような意志で両親を驚かせた川崎は、今度は関東の強豪大学の誘いも断った。ドラフトで指名がかかるかどうかはあくまでも微妙。それでも、可能性がある以上はそこにかけてみたかった。
3「お返し応援」
 ほとんど学校を休まなかった川崎が、3年間で1日だけ「ズル休み」したことがある。休んだのはサッカー部の大会があったからだった。「夏の県大会で応援に来てもらった。だからどうしてもボクも行って応援してあげたい」と、学校に‘病欠‘の連絡をしてくれるよう、父・正継に直訴。後になってその事実を知った田中も、もう何も本人には言わなかった。
 仲間とのきずなの大切さを学び、プロになることだけを夢見て追いかけた3年間。その集大成が、日本一のホークスに4位で指名を受けたドラフトだった。
 ダイエー初優勝の余韻も冷めやらない1999年11月19日。午後5時近くになり監督室で一報を聞いた上原は、満面の笑顔の川崎と抱き合って喜びをかみしめた。だれよりも努力し、だれよりも深く野球を愛しチームを引っ張ったことを知っている。だから上原も自然と涙が出てきた。
4「休まずトレ」
 その夜、念願かなった川崎家ではにぎやかなお祝いが催された。これまでの道のりを知る大勢の人たちが一堂に会したこんな日でも、決して浮かれたりはしなかった。乾杯もそこそこに足を運んだのは、夏に両親に8万円で買ってもらったウエートトレーニングの器具が置いてある倉庫だ。そこで川崎は重いバーベルを持ち上げていた。
 「今日は休んでもいいんじゃない?・・と声をかけると、ボクはプロで活躍したい。そのためにも今から体をつくっていかないといけないんだ」と言うんです。体の細さを補うように、まっすぐ貫いた鋼のような心。いつも泣いていたあの小さな子が、自分を信じて道を切り開いた。今日からはプロ。いつのまにか大人びた息子の横顔を、母も目を潤ませながら見守っていた。(山本泰明氏の記事より)