団地小説短編集を歩く

団地小説短編集の舞台を歩きながら団地や地域の魅力をお伝えします。

小説キャナルタウン 7 兵庫運河5橋の不都合な真実 第1号橋は第五橋で開運橋

2017-02-24 07:50:30 | 日記
   申し訳ありませんが

   小説キャナルタウン 1 兵庫運河祭 回転橋の謎(2016.11.14)

   小説キャナルタウン 2 謎の回転橋はどこ?兵庫運河5橋巡りしかし新たな謎が(2016.11.19)

   小説キャナルタウン 3 兵庫運河住吉橋の謎(2016.12.24)

   の続きとなります。少し古くなりますのでバックナンバーからお読みください。

     その1 住吉橋が運河第四橋

     市民のグラフこうべ 昭和55年4月  神戸史学会の落合重信氏の「神戸・橋と歴史」によれば  

   ‥‥明治9年の新川運河、明治32年の兵庫運河が開通したことによって、いくつかの橋がつくられた。西から

  第一・第二と数えた。高松橋・御崎橋・材木橋・住吉橋・第五橋(磁石橋)である。高松橋は一葉式跳躍橋であった

  が、陸上の交通が多くなり、昭和12年固定橋となった。第五橋も磁石橋といわれるように、船が通るときは、ま

  ん中の石台を中心に回転していたものであった。‥‥

   第一・第三・第五橋について地図や本で確認出来ましたが第二・第四橋は確認出来ませんでした。住吉橋は地図で

  見る限り大正4年から大正12年の間に建設された思われるので運河五橋には含まれず和田旋回橋を第四橋と考えて

  いました。生活の不便さや、水を入れる前に橋を建設すえれば効率的です。運河五橋が当然運河開通と同時に出来た

  と考えていましたがこれも違っていたようです。

      その2  橋の建設は遅れる。第二・第三・第四橋は回転橋ではなかった?
  
      鉄の橋百選ー近代日本のランドマーク

   土木学会鋼構造委員会歴史的鋼橋調査小委員会 平成6年  

          謎をかかせる現存最古の可動橋   和田旋回橋

   和田旋回橋は、明治期に作られた現存最古の可動橋である。しかし今は動かない。和田旋回橋のかかる兵庫運河

  には、運河の開削とともに5つもの可動橋が架設された。戦前・戦後を通じ、これだけ沢山可動橋が集中的に架設さ

  れた地域は他にまいない。‥‥中略‥‥

   運河の本川には可動橋が5つ、浮橋が1つ、支川には3つの固定橋が架設された。ここで一気に、5つの可動橋が

  が架設されたのである。タイプはいずれも、棒磁石のように回転する旋回橋である。和田旋回橋は、この中のひとつ

  であり、我が国最初の鉄道可動橋である。このようなギネス的に価値の高い和田旋回橋であり、また兵庫運河の可動橋

  群であるのに、詳細はわからぬ点が多い。   ‥‥後略

       土木学会付属土木図書館 デジタルアーカイブス 鋼構造委員会出版物で公開されています。

   「土木学会の鋼構造委員会」名前からしてこれ以上堅い所はない所から出た立派な本なのでついついそのまま信用

  してしまったのですが検証する必要があるようです。

          兵庫運河株式会社 第6回事業報告書付属地図 明治30年6月

       

     明治30年の図面であるので兵庫運河の計画図とも言えるものであるが記載のある橋は

   第一橋(高松橋)の位置に回転橋のマーク

   第二橋(御崎橋)の位置に回転橋のマーク

   第三橋(材木橋)記載なし

   和田旋回橋   開いた状態で図示してある。(以後の地図では説明を省略します。)

   第四橋(住吉橋)記載なし

   第五橋(清盛橋)記載なし

   舟橋      舟橋の図

      当初から計画した橋は第一橋・第二橋・舟橋のみ?

          最新神戸地図  明治41年11月15日
 
         

   第一橋(高松橋) 舟橋 渡し船で対応?

   第二橋(御崎橋) 記載なし

   第三橋(材木橋) 舟橋 舟を並べた舟橋。

   第四橋(住吉橋) 記載なし

   第五橋(清盛橋) 開運橋の表示がある。回転橋が縁起良く開運橋と呼ばれたらしい。

   舟橋       舟橋 舟を並べた舟橋。舟橋の記号が2種類あり渡し船と書き分けたと思われる。

      明治41年までに現実に架橋された橋は第五橋のみであったと思われる。
   
          神戸市街全図  大正4年

       

   第一橋(高松橋) この地図ではわかりにくいが同年の「神戸古今対照地図」では橋の記載がある。

   第二橋(御崎橋) 記載なし

   第三橋(材木橋) 舟橋

   第四橋(住吉橋) 記載なし

   第五橋(清盛橋) 橋名は判読不能(神戸古今対照地図では開運橋)

   舟橋       舟橋
   
    明治41年から大正4年の間に運河第一橋が架橋されたと思われる。

          商工地図 大正12年

       

   第一橋(高松橋) 記載あり

   第二橋(御崎橋) 記載あり(昭和10年の地図には御崎橋と表示されている)

   第三橋(材木橋) 記載あり(昭和12年の大神戸市景観図では第三橋と表示されている。)

   第四橋(住吉橋) 住吉橋の表示がある。

   第五橋(清盛橋) 運河第五橋の表示がある。

   舟橋       浮橋

    大正4年から大正12年の間に第二橋(御崎橋)第三橋(材木橋)第四橋(住吉橋)が架橋されたと思われます。

   兵庫運河は経営が苦しくなり大正8年に神戸市に売却されます。この事を考え合わすとこの3橋は神戸市に売却後に

  神戸市によって建設されたと思われます。また時代的に回転橋ではなく住吉橋と同じ固定橋であったと考えられます。

          

   おそらく大正年間に建設された初代の住吉橋の写真(市民のグラフこうべ昭和46年10月号から)です。経営難で

  延び延びになっていた3つの橋が神戸市によって架けられましたが、すでに帆船が海の難所、和田岬を迂回するバイパス

  として兵庫運河を利用する時代ではなくなっていたので固定橋が建設されたと思われます。

   初代住吉橋は昭和46年に現在の住吉橋になります。御崎橋はその後橋脚のある鋼鉄橋に架け替えられ平成12年現在

  の橋になります。材木橋もその後橋脚のある鋼鉄橋に架け替えられ昭和56年現在の橋になります。第五橋は昭和62年

  清盛橋になります。第一橋は道路の拡張と市電の開通のため昭和3年鋼鉄製の跳ね橋、高松橋となります。(交通量の

  増大により昭和12年に橋の開閉は中止)さらに道路の拡張のため平成6年固定された高松橋となります。

   交通量の差が橋の運命を決めたようです。兵庫運河に架けられた第一号橋が第五橋であってなお且つ、修理改修はあった

  にせよ昭和62年まで残っていた。それぞれの地域の変遷がうかがえます。

   そもそも、第一橋・第二橋‥‥第五橋の呼び名は兵庫運河株式会社の時代からあったのでしょうか、もしかしたら神戸市

  の買収後の名前かも知れません。わからないことが次々と出てきます。私は地元の人間ではなく、また限れた資料しかあり

  ません。出来るだけ合理的に検証したつもりですが、その点はお含み置き下さい。
  
      その3この写真はどちらの橋でしょう

   このシリーズ?は昨年の兵庫運河祭で配られたこの一枚の絵葉書から始まりまし。

          

   兵庫運河のありし日の風景 神戸市文書館提供 裏に 旋回橋(明治45) 現在は固定されており、動くことはないが

  今も残る橋脚にかっての姿がしのばれる。と和田旋回橋の説明がありました。

   しかしそれは違うのではないかと言うことで。

        

       写真 左 キャナルレガッタにある説明板の写真   写真 右 冒頭の「神戸・橋と歴史」の写真

                             「大正十三年ごろの兵庫運河の回転橋・第5橋」の説明

   写真 左 を発見、運河第一橋であると結論が出たところでありますが、写真右と同じ写真では?

   写真右が大正13年の第五橋とするとには大きな矛盾があります。当時すでに、新川橋は市電が走っており(大正

  12年とされる商工地図には少し不自然なかたちで路線が記入されていますが中之島~今出在家町町2丁目の開通は

  大正14年3月7日されていますのでこの部分は訂正します。大正12年の陸軍の実測図では道路の拡張は終わって

  いますが橋は、現在の橋の西側に橋があります。)兵庫運河にも固定橋があり多くの帆船(千石船の時代は帆柱を倒

  すことが出来、嵐をやり過ごしたり橋の下を通ることが出来たようですが)が写ることは考えにくく、船のことは分か

  りませんが船の形から見ても明治期ではないかと思います。

   第一橋と考えた場合、対岸は現在の川崎重工(車両)となりますが明治43年測量の2万正式図ではこんなに建物が

  建て込んでいるとは思えない。  国土地理院 図歴(旧版地図)から閲覧できます。

   第五橋と考えた場合、清盛橋から考えて橋が長すぎる様な気がする。

   その他、色々ありますが確定することは出来ませんでした。全く振り出しに戻ったわけです。



  私なりのある程度の答が出ました。

    小説キャナルタウン 36 兵庫運河の可動橋 運河五橋十新川橋(2019.3.8)をご覧下さい。


   
    キャナルタウンクイズの答です。

    小説キャナルタウン 6 新兵庫運河物語 2 能福寺 平清盛公837回忌追善法要

   問題 キャナルタウンウエストと言えば色々な美しい橋を思い浮かべますが橋の数はいくつあるでしょうか。

        

   西から         高松橋                 御崎橋

        

               材木橋                 和田旋回橋

        

               住吉橋                 清盛橋

    の6橋です。 もちろん橋に名前はありませんが、奇しくも兵庫運河と同じ6橋です。

       
       

小説君影小唄 3 鈴蘭台ダンスホール跡(追記) 君影団地((鈴蘭台第5)の電車?

2017-02-17 18:34:19 | 日記
      鈴蘭台ダンスホールの記述を見つけました

   鈴蘭台ダンスホールに関してネット上で検索出来る唯一の記録は、神戸大学電子図書館システムによる

  大阪朝日新聞の昭和11年10月15日の記事で17日9時から鈴蘭台桜ヶ丘グランドで”第1回鈴蘭台住宅

  運動会”が開催される。プログラムの中に‥‥▲生活難競争(青年、鈴蘭台ダンスホール連中)‥‥のみです。

   当時の雰囲気がわかる記事ではありますが鈴蘭台ダンスホールについては全く手がかりが有りませんでしたが

  たまたま神戸新聞総合出版センター刊「兵庫の鉄道全駅」の鈴蘭台西口駅で鈴蘭台ダンスホールの記述を見つけ

  ました。

   昭和9年に完成、昭和11年に隣接地に新駅が生まれ「鈴蘭台ダンスホール前」と名付けられた。広さ170

  ㎡と余り大きなものでなかったが、紳士淑女のサロンとしてにぎわった。昭和12年の調査でダンサー29人、

  1日の平均入場者82人(内務省警保局調査)という記録が残っている。昭和13年に焼失、その後料理旅館が

  建設され昭和16年まで営業を続けていた。(要約)とあります。

   地元の新聞社の出版物ですので建設年・面積・営業・焼失年の数字は正しいと思われます。所在地は駅から

  100メートルほど離れています。焼失後に料理旅館が建設されたとありますが、前回「君影小唄小説 2」

  (2016.11.17投稿)に書きましたが旅館の付属施設として鈴蘭台ダンスホールがあったと考えます。

   根拠としては、1.証言がある。2.焼失した鈴蘭台ダンスホールの基礎は後々まで残っていた。火災の後に

  旅館を建てたのなら撤去しているのでではないか。3.旅館は大きな建物であり時代的に大きな料理旅館を作る

  様な時代ではないと思われる。記事中の生活難競争は借り物競走の洒落でしょうか。青年とダンサーとによる

  借り物競争?しかし名前が時代を反映しています。

   買収された旅館は大きかったので空襲目標にならないよう黒く塗られます。これによって「小説君影小唄 1」

  (2016.11.1投稿)に書いたように森の中にあるドラキュラが住んでいるかかも知れないと子供達に恐れられる黒い

  洋館になります。
  
   全くの私の想像ですが、昭和17年4月17日神戸は空母ホーネットから飛び立ったB25一機による初めての

  空襲(ドーリットル空襲)を受けます。空襲の脅威が現実のものとなり、神戸海上火災は会社の疎開先の一つとして

  休業中の旅館を買収します。それが戦後、海上火災の福利厚生施設となったのではないでしょうか。


   小説君影小唄 5 鈴蘭台ダンスホール跡確定 検証川重輸出車両積出し 他(2017.12.29)があります。


         君影小唄の話

   小説君影小唄は君影小唄が小説化されたものです。昭和三十年代・四十年代によくあったヒット曲を映画化する

  (君影小唄はヒットしていませんが)と同じパターンです。もちろん曲もありますが音符を書く機能があるのか

  ないのかすらわかりませんので今回は歌詞のみの紹介します。

              君影小唄
  
     北や南は  五葉の松よ  私待つのは  君の影

       人の噂は  鈴蘭の花  小首かしげて  花が咲く

          君影団地の  電車ごっこは  鉄橋渡って  トンネルも

            電車ごっこに  子供を乗せて  私あなたと  駅で待つ

   少し解説をします。神戸電鉄西鈴蘭台駅周辺は日本住宅公団(現 UR都市機構)によって開発されました。

  駅の北は北五葉、駅の南は南五葉、その南は君影町と名付けられました。五葉はこの付近の字名から名付けられま

  した。君影町は鈴蘭の別名、君影草からきています。君影団地は居住者の皆さんによる鈴蘭台第五団地の愛称です。

   北五葉や南五葉は所詮は五葉松、なんて野暮ったい地名でしょう。君の影(あなた)を待つ私の君影町は名前から

  してロマンチックです。と言ったところでしょうか。

       次は君影団地の電車ごっこの説明です。

        

        君影団地の電車ごっこは          トンネルも

        

        鉄橋も                  スイッチバックまであります

   鈴蘭台第五団地は戸数1,536戸、敷地面積約16.54ヘクタールの広大な団地です。特に緩やかな北側斜面

  に在るため多くの緑地を含み他の郊外型団地に比べても大変に広い敷地面となっています。住宅は大きく3つの住区

  で構成されてトンネルや鉄橋のある線路(歩道)結ばれています。ではターミナル駅は何所にあるのでしょうか。

        

   大きなプラットホームが見えます。旅番組で見る昔は栄えた地方の幹線駅のようにも見えます。いやこれは団地PR

  ブログとしては禁句です。昔はここに一日の売り上げがウン十万円という伝説の八百屋さんを始め9店舗が並び多くの

  買い物客でまさにターミナルの賑わいでした。線路はここを起点に団地内に張り巡らされていました。写真に右は最初の

  分岐ポイントです。

   線路はどこまでも続きます。

        

   本物の線路ではあり得ない5差路です。      トンネルを過ぎてどんどん登ります。

   ターミナル駅の26号棟は団地の北東の端になります。ではなぜ店舗が団地の端なのでしょうか。

        

   秘密はこの階段です。26号棟の北にはアプト式にしてスイッチバック、つまり写真の階段があります。この階段下

  からは神戸電鉄鈴蘭台駅に約1,100メートル、つまり鈴蘭台駅まで徒歩で通勤通学出来る設計になっているです。

   線路の写真ばっかりでしたが鈴蘭台第5団地の魅力の一端を感じて頂けましたでしょうか。26号棟の店舗は現在も

  営業しています。鉄橋の下のバスは神鉄バスです。(バス停は陸橋下です。)この路線は団地バスとして当初自治会に

  よって始められました。便数も多く鈴蘭台第5団地の魅力の一つとなっています。皮肉なことにこの便利なバスが団地

  の商店街の衰退を招くことになりました。鈴蘭台と西鈴蘭台には多くのスーパーがあります。また16号棟の向かいには

  トーホーストア君影店があります。

           鈴蘭台第5団地の詳しいことはUR都市機構のホームページをご覧下さい。

                 西鈴蘭台駅前に現地案内所現地案内所もあります。



       「団地小説短編集を歩く」は団地小説短編集の舞台となった10の団地の魅力を伝えるブログです。

              小説君影小唄は鈴蘭台第5団地が舞台ですので鈴蘭台のページです。

           「団地小説短編集」は神戸明石地区では明舞書店で販売で販売しています。500円+税

               明石市松が丘2-3-7松が丘ビル2階(ダイソー明舞団地店西隣)

           
      

小説キャナルタウン 6 新兵庫運河物語 2 能福寺 平清盛公837回忌追善法要

2017-02-09 19:33:43 | 日記
      能福寺と言えば兵庫大仏ですが

   大仏様は5月9日の兵庫大仏ご祈祷大法会(ホームページによる)でご紹介することにして

       

   能福寺には写真右下の看板にありますように「平相国廟」があります。相国(読みはショウコク)は朝廷の

  官位で特別な太政官の意味で歴史上に平清盛・足利義満・徳川家康の3人だけだそうで能福寺には平清盛公

  の廟が有ります。明治までは貴人を実名で呼ぶことは礼を失することになり官職名や受領名(越前守殿など)

  で呼んでいました。2月4日は清盛公のご命日でご命日で平成29年は837回忌になります。

   清盛公の没年は治承5年閏2月4日、西暦(太陽暦)では1181年3月20日になります。閏月は太陽暦

  では存在しませんので能福寺では2月4日をご命日としてご供養しています。3月20日をご命日とするところ

  もありますが、法事は遅れるのはだめですが早い目に済ますのはいいそうです。

        

    平清盛公墓所 八棟寺殿 平相国廟  と書いてあります。八棟寺は能福寺の寺領内にあった清盛が建てた

  大平山八棟寺と呼ばれた大きなお寺で八棟寺殿は清盛の別名だと思われます。

   中央にある清盛塚を模した一三重の塔が平清盛公のお墓です。右の見えにくいですが灯籠の後ろ黒い石が清盛公

  の剃髪出家の師匠の円実法眼の五輪塔、左が清盛公の甥で僧の忠快の九重の塔です。忠快は平家一門とともに都落ち

  をして壇ノ浦で捕虜となりますがその後朝廷や源氏からも尊崇を集める高僧となります。どちらも能福寺の住職で

  昭和59年2月清盛公の800回大遠忌を迎えるにあたり平相国廟を建立復興し、併せて合祀したと書いてあります。

        卒塔婆

       

     八棟寺殿正一位大相国平公回向   

     平家一門源氏一族将兵慰霊回向 とあります。将も兵も敵も味方もみんな回向します。

       

     今日は皆様よくお参りいただきました。11時に始まりました。

        

     静かな境内に読経が流れます。

        

   ご焼香の列が続きます。こんなに有名人の焼香が出来るとは正直驚きでした。皆様も話の種に一度来られたらど

  うでしょうか。

   今年は神戸開港150年で神戸市も色々イベントが多いようですが神戸港の恩人、清盛公の法要に神戸市の参列は

  なかったようです。神戸市の名誉のために書きますが去年は参列されたようです。今年は土曜日だから?

     ご住職の有難いご法話です

        

   清盛公は京都で荼毘に付された兵庫のどこかに埋葬されたのですが、今となっては何処かわかりません。清盛公の

  お墓と言われるところは西日本に5カ所ぐらいあります。遺骨がどこにあるかと言えば平家が西国に都落ちの時に遺骨

  も運ばれその時々に埋葬された場所が今に清盛塚として今に伝わっているのではないか。そして最後は壇ノ浦で平家

  一門と一緒に沈んだと思います。実に気配りの有難いお話です。仏教的には遺骨自体に大きな意味は無いとのお話です。

  またご命日だけご供養すればいいものではなく毎日供養の心がなくてはいけません。

             実にありがたいお話でした。合掌。清盛塚は回を改めてご紹介します。


    キャナルタウンクイズの答です

   問題は  小説キャナルタウン 5 和田岬線 新川支線 新川(貨物)駅 (兵庫臨港線)2017.1.17
 
   第1問 キャナルタウンウエストと言えば中央を流れる運河が有名ですが運河の水は何の水でしょうか。
     
     ア 海水    イ 川の水  ウ 水道水  エ 地下水  オ 工業用水

   第2問 キャナルタウンウエストはUR都市機構の団地ですが運河部分の所有者は誰でしょうか。
 
     ア 都市機構  イ 神戸市  ウ JR   エ 国    オ 兵庫県
     
         

   看板をご覧下さい。

      この運河の水は工業用水を使用しています。飲料水でないため飲むことは出来ません。神戸市

   と書いてあります。第1問は オ 工業用水  第2問は イ 神戸市 が正解です。

   運河の水は災害時の消防水利や雑用水として利用されます。数カ所に消防用水取水口があります。


       キャナルタウンクイズです

            

    キャナルタウンウエストと言えば色々な美しい橋を思い浮かべますが橋の数はいくつあるでしょうか。

    答は

     小説キャナルタウン (仮称)兵庫運河5橋 不都合な真実  に掲載します。


     「団地小説短編集を歩く」は団地小説短編集の舞台となった10の団地の魅力をお伝えするブログです。

      小説キャナルタウンはキャナルタウンウエスト団地のページです。

      新兵庫運河物語は昔々、観光案内所にも置かれる団地のパンフレットを目指し作られた実験的パンフレット

      「兵庫運河物語」と名前は似ていますが別企画です。

      
             

番外編 4 姫路モノレールだけではなかった石見市長親子二代の執念

2017-02-02 17:33:14 | 日記

       番外編 13 高尾団地・姫路モノレール大将軍駅 解体完了 まとめ(2018.1.26)

       の末尾に目次及び掲載予定があります。


     変な題になってしまいましたがまず高尾団地の状況です。

   平成28年12月23日       

        

   9階の解体が行われていますが、外からは何もわかりません。

   平成29年1月26日

        

   解体は7階まで進んでいます。昼休みだったので少しの覗いて見ました。

         

   モノレール手柄山駅の上から見た高尾団地です。後方の見えなかった茶色の建物が見えて解体が進んでいることを


  実感します。

     石見元秀市長が姫路モノレールを作り

        

                         息子の石見利勝市長がモノレール展示室を作り

     石見元秀市長が大手前通を作り

        

            息子の石見利勝市長が姫路駅から大手前通の先の姫路城を見るキャッスルビューを作り

                            写真右の右端の黒い枠です

     キャッスルビューから右下に見える大きな掘り込みが見えます。これは何でしょうか?

          

   大きな掘り込みの底には川があります。姫路城は大手門にある内堀、今は土塁だけが残る国道2号線になった中堀

  そしてJR姫路駅前にあった外堀、これは外堀を模して復元した観光外堀、姫路市もなかなか考えたもので、これなら

  姫路城観光のお客様に姫路城下を体感してもらうことが出来ます。名前はきっと外堀ガーデン。しかしその説明板が

  見当たらない。 

        

   掘り下げた面には商店(飲食店)が並び、見上げれば、山陽百貨店とフェスタビル。つまり大手前通り。

        もしかして大手前通(駅前幹線)オープンカット

         広報ひめじ  昭和38年1月 新春特集号

        近代都市に即応し  高架道路やモノレール

                都市計画


   最近の姫路市の産業経済は、他都市の追随をゆるさないほど伸展し、ことに播磨工業地帯の工業生産は、全国屈指

  のもので近い将来の大飛躍が期待されています。

   姫路市の交通の中心である駅前広場と姫路駅前幹線道路の1日の交通量を見ますと、自動車約10万台にも達し、国

  鉄、山電等の乗降客は、13万人以上を越えている現状であります。

   この交通混雑と、駅前広場の駐車場、バスターミナル等の諸問題を一挙に解決するため、総合的に計画を立案し、駅前

  幹線幅50メートル、延長約800メートルの間をオープンカットし地下11メートル掘り下げ、両側歩道の地下に二階

  建の商店街を造成し、自動車、バス等は、オープンカットした地下道を走り、十二所前線、国道二号線では、信号規制

  によらず所謂ノンストップで立体交さすることによりすべての交通を円滑化し、また、地下駐車場として、相当なスペース

  を造るなど、一大計画を樹立し、旧年来より、再三建設省と協議をもっているもので、近い将来、何らか具体案が出来上が

  るものと思っています。‥‥後略‥‥この後姫路駅から大将軍橋への25メートル道路やモノレール計画が続きます。

   番外編 3 建設進む高尾団地 姫路モノレール建設急ピッチ をご覧下さい。

   息子の石見利勝市長はついに父親の石見元秀市長の大手前通オープンカット計画を一部ではありますがが形を変えて実現

  したのです。構想から約50年、石見市長親子二代の執念で有ります。モノレールの失敗で選挙に落選した父親が果たせ無

  かったモノレールの次の夢、大手前通オープンカット計画を密かに実現、父親の無念を晴らしたのであります。

   本当はキャッスルガーデンというらしいです。姫路城の外堀よりも若干南にずれているかも知れませんが、位置の差を

  明示すれば観光復元の外堀で有っても観光客には受け入れてもらえると思います。城下の大きさを体感してもらえます。
  
  姫路駅をおりてお城に向かう第一歩が外堀を渡ることになる。素晴らしい仕掛けです。姫路城観光のお客様への最大の

  もてなしはどれだけ多くの知的満足を与えられるかで有ります。

        明治41年の姫路市の地図

       

    堀は水色、船場川は緑、現在の大手前通部分は黄色に着色しています。外堀は一部が埋め立てられています。

        忘れられた外堀遺構    

       

   ここは姫路城のビュースポットの一つで千姫の小径として整備された姫路城中堀(左)と外堀を兼ね飾磨津と姫路城下を

  結ぶ船場川(右)の中堤です。最近は観光客もちらほら見られ桜の季節は特におすすめです。

   ここにも似たような風景が有ります。突き当たりに解体中の高尾団地が見えます。

        

   左側が姫路城外堀、右側が船場川のはずが、左側に架かる緑橋の欄干を見ると船場川です。つまり、右も左も船場川、

  従って姫路城外堀の案内板も有りません。 (写真は北から南を写しています。地図は上が北です)

   右の古地図をご覧下さい。薄緑の部分が水面です。ここは外堀の備前門(姫路城には本丸にも備前門が有ります)の南側

  で外堀のはずなんですが?古地図では外堀も船場川も東へ折れますが船場川はその後、直線に付け替えられて、外堀は先が

  埋め立てら大蔵前町公園となっているとなっていると思われます。

   ではなぜこうなったのでしょうか。この「姫路城外堀」には北西の角に船場川からの入水口があります。また南東の角

  には排水口が有ります。この先に旧の船場川と外堀の排水の役目も持つ今は暗渠となってしまった川があるのではないで

  しょうか。それで、行政上は船場川の一部として埋め立てを免れて今に残っている。行政上の扱いは別としても、是非

  「姫路城外堀」の地位を回復させて姫路城外堀の看板を、そして備前門跡の標識も、備前門は西国街道の西の入口の重要

  な門です。姫路市役所の皆さんご覧になっていたらよろしくお願いします。


    「団地小説短編集を歩く」は団地小説短編集の舞台となった10の団地の魅力をお伝えするブログです。

     「番外編」は舞台となった10の団地の以外の話題です。現在は解体中の高尾団地の追悼特集です。

             「団地小説短編集」は姫路市では井上書林で販売しています。

       


      高尾団地・姫路モノレール関係の記事は

     番外編 1 高尾団地取り壊し始まる(2016.10.1)

     番外編 2 高尾団地取り壊し進む と 姫路モノレール(2016.10.22)

     番外編 3 建設進む高尾団地 姫路モノレール建設急ピッチ(2016.12.10)

     番外編 5 高尾団地解体 姫路モノレール延伸計画と船場ビル群(前編)(2017.3.10)

     番外編 6 姫路モノレール延伸計画と船場ビル群(後編)ついでに復活計画(2017.3.17)

     番外編 7 高尾団地・大将軍駅解体 姫路モノレール軌道撤去(2017.3.31)

     番外編 8 夢か幻か モノレールと姫路城と桜の競演(2017.4.28)

     番外編 9 解体進む高尾団地・姫路モノレール大将軍駅解体 船場本徳寺とその界隈(2017.6.9)

     番外編 10 解体難攻?高尾団地・大将軍駅 いい仕事しています日本住宅公団(2017.7.28)

     番外編 11 高尾団地・大将軍駅は旧船場川跡? 杭引抜機撤退 船場蔵と大蔵前町(2017.9.29)

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     番外編となっているのは、このブログが「団地小説短編集」「UR賃貸10の団地と10話の物語」のPRブログ

     でありますが、高尾団地が「10の団地」に含まれていないからです。

      「10の団地と10話の物語」は序章(2016.9.24)をご覧下さい。