寝転がって気軽に思いました😚😚

寝転がって気ままに思いました。の続編です。
たぶん、おもしろいと思いますのでお立ち寄り下さいな。

赤穂浪士の討ち入り

2023年12月15日 09時50分06秒 | penhorse813@gmail.com

  おはようございます。

昨日は討ち入りの日でした。

 はて、討ち入り・・・?と思う人も大勢いらっしゃるでしょう。

嘆かわしい 赤穂浪士討ち入りも知らぬのか、と涙する 御仁 世の中が不義理になったのも

よくわかりますね。

 で、討ち入り について 少し講釈(説明)しましょう。

時は元禄 徳川幕府の基、戦国時代の喧騒も治まり安泰の世になっていました。

武士と町人が共生するようになって落ち着くと雑がはびこるようで 武士の面目はどうなった。

俸禄に見合った働きはどうだ、などと武士道を訝るようになるくらい 世の中は平和な頃。

平和ボケのぬるま湯に浸かっていました。

そんな時(1702年)大石内蔵助以下四十七士が、本所(東京の地名)の吉良邸に討ち入ったのは

十四日の夜、寅の上刻。

 今の太陽暦の1月31日、当時は太陰暦だったので12月15日午前三時頃。

ただし昔は、午前4時までは前の日の夜だったので、討ち入りは十二月十四日となっています。

 何だかややこしい事を書いてしまいましたが、 ご容赦下さい。

今の日時で1月31日の夜中3時に大石内蔵助を先頭に四十七人が揃って 吉良上野介邸に

押し入ったのでした。吉良邸 その頃の武士 幕府の上級閣僚の家ですから かなり大きかったようで

当時の家は平屋。いくら大きかっても武装した四十七士が命懸けで討って入ったのですから

時間は掛かりましたが、狙った吉良上野介は討ち入りに気付き家から抜け出して炭を置いていた

倉庫に隠れていたのを見つかり その場で討たれたのでした。

 この話は 要は敵(アダ)討ちでした。播州赤穂のお殿様の浅野内匠頭が、幕府の正規の儀式に参列するのに

初めてのことで色々様々な所作が分からなくて儀式の担当の吉良上野介に教えて下さいと頼んだのですが、

内々に賄賂を要求したのに気が付かず 吉良上野介は 田舎サムライめ、と意地悪をして浅野内匠頭は儀式で

恥をかくやらで面子を汚されました。

怒った浅野内匠頭は 城内で吉良上野介に よくも恥をかかせたな、と斬りつけましたが 吉良上野介は危うく難を逃れ

ました。

 城中での刃傷、抜刀はご法度 の決まりがあって浅野内匠頭は切腹、領地はお取り潰しになりました。

いきさつはどうであれ 喧嘩の裁きは両成敗と当時は不文律があったのですが、吉良上野介はお咎めなし。

 浅野家の重臣 大石内蔵助はこの裁きは片手落ちだ、と憤慨。

なんとしても主君の無念を晴らさん為に仇討ちをすることを決意。

直ぐは相手も用心してるので わざと遊興しながら相手を油断させて頃を見計らって家臣四十七人を率いて

討ち入りをして 本懐を遂げたのでした。

 この事件は、世の中に広がり武士の仇討ちとして称賛されました。

以降 この事件は、芝居や興行で取り上げられ今でもこの時期に忠臣蔵などの題で映画などで上映されています。

 当時 平和ボケしていた武士の存在を一躍見直された事件でしたが、意地悪な閣僚に立ち向かった 判官贔屓的な

こととして庶民に受けたのでした。

 昨今、このような話も段々と寂れてきたように思われますが、この事件 討ち入りを終えた大石内蔵助

以下四十七士は全員が切腹。

裁判はない時代でも幕閣内でかなり吟味されたようですが 最後は将軍の判断だったそうです。

今の世だったら 先ずは 精神鑑定でしょうね。

人権尊重、擁護時代とは随分違いますね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする