佐渡の翼

佐渡の観光名所紹介、佐渡の宿泊施設の宿泊記、佐渡の全飲食店と東京都内高級レストランの食べ歩記、ヨーロッパ及び国内旅行記事

i8ロードスターのPR動画を記事の最後尾に貼り付けました

動画に登場するi8ロードスターと全く同じ車体カラー、ホイール、内装、の右ハンドル車が、8月6日に千葉港へ到着し、通関手続きが完了いたしました。そして、新車整備、車両登録も完了し、9月2日に無事納車されました。従いまして、日本上陸第一号となったi8ロードスターの全貌を、9月6日に当ブログ上で公開いたしました。9月18日には、Keiyo BMW千葉北支店のフェイスブック(https://www.facebook.com/keiyo.bmw.chibakita/)でも紹介されました。このフェイスブックには、スマートキーをリモコン代わりに使用して、i8ロードスターの屋根を開閉する動画も掲載されています。更に、7月6日に発売されたホンダS660のcomplete modelである、ModuloXは、9月23日に無事納車となりました。 2018年9月24日現在

i8ロードスターPR動画

https://twitter.com/i/status/988688999794409472

小川の濡れ仏(佐渡市相川)   投稿者:佐渡の翼

2024年04月21日 06時00分23秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

その昔、12体の仏を乗せた船が小川沖で難破した。何とか救い上げたものの、一体を海中に落としてしまった。その仏がある人の夢枕に立ち、「磯に上がっているので多聞院に祀って欲しい」と言ったという。村人達はその海水で濡れた仏を多聞院に祀ったが、狢が出て困ると言う事から、集落のはずれにある小高い丘の上に移したと伝えられている。この仏は光輪を背にした青色の阿弥陀如来像であるが、その隣に五重塔が建っている。いつも小川付近の県道を通るたびに「何かなあ~」と思っていたが、地元の人に尋ねて、これが濡れ仏だとようやく分かった。それにしてもそれほど古くはない仏である。後年の人が置き換えたのではないかと思ったくらいだ。この濡れ仏にどういうご利益があるのか分からぬが、ここから見る小川の集落と姫津の海岸線は実に美しくそしてのどかである。

濡れ仏と五重の塔

五重の塔


佐渡国分寺(佐渡市真野)   投稿者:佐渡の翼

2023年09月10日 06時00分25秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

佐渡の飛鳥路と称される、妙宣寺や世尊寺などが点在する道路を真野方面に向けて車を走らせると、やがて右手に国分寺が現れる。国分寺とは何か?歴史事実を書き連ねると日本史の講義のようになってしまい、面白くも何ともないので止めておく。およそ、ブログネタでつまらないものと言えば、神社仏閣に関する描写である。大体、海や祭りと違い動きが無いし、モノトーンの単調さが何とも退屈なのだ。それに味見ができないから、筆者のような単純な人間にはその奥深さを理解することができない。

薬師如来が安置されている瑠璃堂や本堂、竹やぶ、しい林など、いずれも国分寺のホームページを見れば詳しく解説されているので、勉強したい人はそちらをご覧頂きたい。

佐渡観光協会事務局ブログに「観光地域プロデューサー通信」というコーナーがあり、かつて次のような一文があった。「佐渡観光が何故若い女性層に受けにくいかをじっくりと考えてみました。結論は「佐渡の観光は重たい」でした。佐渡の売り物である「歴史・芸術・伝統・文化」には極めて大きな価値がありますが、観光を「学習でなく遊び」と捉える若年層に、佐渡観光が重たく感じられるのはしごく当然と思われます。旅行先に「楽しさ」が無いと若い女性観光客はなかなか訪問してくれません」と。佐渡観光の弱点を見事に喝破していると思った。男女を問わず若い観光客からは、「遊び心がなく、楽しさを感じさせないただ難しいだけの観光地」は見向きもされないのかもしれない。

屋根が茅葺の庫裏

牡丹

別角度からの牡丹

正面から見た牡丹

牡丹越しに見た庫裏

牡丹2

牡丹3

http://www.digibook.net/d/3d14e973a1982038782e3d042a3bb718/?viewerMode=fullWindow


世尊寺   投稿者:佐渡の翼

2023年08月16日 06時00分20秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

真野に飛鳥路と呼ばれる道がある。奈良の飛鳥路によく似ている事からそう名付けられたという。この飛鳥路の沿線で大膳神社と妙宣寺との間に位置するのが世尊寺である。山門をくぐると両脇に様々な樹木が植え込まれているのに気付く。その中の右手に緑が映える長屋門の白い壁が見えてくる。素晴らしいコントラストである。突き当たりの右手には、左右から五輪塔に挟まれた朱塗りの中門がある。ここをくぐると、芝生の前庭が開け、突き当たりに本堂が見えた。裏から蓮池と共に眺める長屋門もまた美しい。

このお寺の開基は、順徳上皇と共に来島した北面の武士が上皇崩御後も島にとどまり、後に配流されてきた日蓮と知り合い彼に帰依して入信した事に始まる。境内はあくまでも清楚な佇まいであり、四季折々の小鳥の声が絶えない。初夏の今頃に訪ねたが、紅葉の時期、あるいは冬に雪の降り積もる頃に訪ねるのも面白かろう。

中門

中門から見た本堂

苔蒸した石塔

本堂

世尊寺の額

http://www.digibook.net/d/fcc587d3915a08387826bd866a38365c/?viewerMode=fullWindow


紅葉、お糸別れの松(佐渡市羽茂)   投稿者:佐渡の翼

2023年08月14日 06時03分57秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡
国道350号線の羽茂村山と小泊の間付近に「紅葉別れの松」という句碑が立っている。明治の文豪にして「金色夜叉」というベストセラーを世に送り出した尾崎紅葉が、小木の文芸芸者「お糸」さんとごんざや旅館の2階で恋に落ち睦みあったラブロマンスは今でも語り草となっている。昔の人気作家ってほんといいよなあ~。妻子ある身でも東京に住む有名な文豪というだけで島の芸妓と恋仲になり不倫行為をしてもそれが文化だとして、後世の人々の話しの種になるのだから。

さて、明治32年7月29日、紅葉はいよいよお糸と別れる時が来た。お糸さんは小木町の有志達と小木から6キロ離れた羽茂村山近くの三階屋という茶屋まで紅葉を見送りに来た。茶屋を出た後、見送りに同道した小木小学校の校長が扇子を取り出し、「ここに一句したためて欲しい」と紅葉に依頼した。紅葉はスラスラと「汗なんど 拭いてもろうて 別れけり」と扇子に俳句を書いた。お糸はこの扇子を校長からもらい受け大切に保存していたが、明治37年の小木の大火の際に焼失してしまったという。

紅葉とお糸さんの間に子供でも生まれていたら、又歴史は別の展開になっていただろうが、お糸は妊娠することなく紅葉と別れた。茶店を出てしばらく行くと下り坂になっており、そこから振り返ると茶店付近に一本の松が見える。お糸はこの松の麓から、去っていく紅葉の見え隠れする後姿を必死で追いながら両手を大きく振って見送った。紅葉は、松の所でお糸と別れる際、「いと一語を発せず」と日記に書いた。

句碑は色褪せており、その文字は判読不能!


牛尾神社(佐渡市新穂)  投稿者:佐渡の翼

2023年08月13日 06時00分21秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

拝殿の見事な彫刻で有名なこの神社を雨上がりの夏のとある日に再訪してみた。一の鳥居をくぐり、階段を登る。その途中に、真野地区在住の郷土史家・山本修之助の句碑がある。肉眼では判読不能だったが、句碑には「朱鷺の棲む、山をかなたに、タ桜」と書かれているそうだ。ここから参道は左へとカーブする。そして赤い、二の鳥居が見えて来る。赤い鳥居を潜ると左手に天満宮があり、やがて右手に安産杉が現れる。小木の蓮華峰寺にも、女性がさすると子宝に恵まれると言う大けやきがあり、佐渡の寺社には、子孫繁栄のための樹木信仰があるようだ。安産杉の根元には、「元気な男の子が生まれますように」「朱鷺の雛が無事に生まれますように」などと書かれた願い札がたくさん括り付けられていた。境内の左手に能舞台があり、真正面に拝殿がある。拝殿の彫刻の見事さについては、更に撮影を繰り返して画像をお見せせねばならぬほどの素晴らしさである。荘厳豪華絢爛の形容がぴったしの牛尾神社であった。

安産杉

その根元

可愛らしい願い絵馬

拝殿部分の見事な彫刻

http://www.digibook.net/d/9a54cb5ba19808706801b5128e20f608/?viewerMode=fullWindow


大聖院(佐渡市金井)   投稿者:佐渡の翼

2023年08月12日 06時00分52秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

国道を両津から金井方面に向けて車を走らせ、吉井の街にさしかかると右手に小料理屋の「樋口」左手に自動車教習所が見えてくる。そして下って上る丁度V字型の谷間あたりに大聖院(だいしょういん)があり、正面に茅葺き屋根の山門があった。この山門の仁王像の股くぐりをすると伝染病が治るという言い伝えがある。特に、疱瘡やはしかに効果があるとされており、子供の頃にこの仁王像の股くぐりをした経験のある吉井在住の読者も多かろう。今も仁王像の足下には病気平癒のお礼としてのわらじが供えられていた。山門を抜けると十数段の石段があり、その頂上に瓦屋根の中門があり、ここを抜けると広い境内が広がっていた。鐘楼は茅葺きだが、本堂はトタン屋根、小さい蔵、経蔵などは瓦屋根葺きである。経蔵の白壁が点景となり、全体に調和がとれた構図を作り上げ、落ち着いた佇まいを醸し出していた。ところが鐘楼には釣鐘がなく、その下方は荒れるに任せている。何だか変だなと感じたら、住職の住まいが空き家になっていた。地元の人に窺ったらば、もう無人寺になってから随分と経つのだそうだ。どういう事情があったのか分からぬが、こんな名刹に管理者が住まぬとはどうにも合点のいかない、それほど素晴らしい寺だった。

参考図書:佐渡古寺巡礼


第二山門に至る石段

第二山門

本堂

寺が無住職である事を示す張り紙

鐘楼の茅葺屋根

http://www.digibook.net/d/0545ad9fb11e0a316d4abda09228374c/?viewerMode=fullWindow


新穂大野の大銀杏     投稿者:佐渡の翼

2023年08月07日 06時00分51秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

新穂大野地区にある、清水寺の真向かいに、「新穂大野の大銀杏」の案内標柱があり、その先に「50メートル先左手」の看板が見える。観光客は勿論の言、頻繁に清水寺を写真撮影する佐渡人ブロガーでもこの案内標柱には気付かないらしい。この看板通りに行くと、民家の庭先に入る感じになり、銀杏の大木の左側面に行き着く。佐渡市の文化財HPに掲載された写真は、この巨木を正面から撮影したものであり、大木の正面には小さな注連縄が飾られていた。正面から眺める大銀杏は威風堂々とし、見事なまでの迫力である。鎌倉の鶴が丘八幡宮の大銀杏も凄かったが、この新穂の大銀杏はそれを凌ぐほどの凄さである。清水寺を訪ねた折には是非ともこの大銀杏へも足を運んで頂きたいと思う。筆者は5月にここを訪ねたが、銀杏の葉が黄色く色付く秋に訪ねるのも一興かなと思われる。 以下は佐渡市文化財のHPからの引用文を分かり易く改変したものである。

地元では「清水寺(せいすいじ)の大イチョウ」といわれる希有の大イチョウ。樹高26m、胸高幹周8.18m、根元幹周10.47m、泰然と天をおおい地を圧する”大人”(だいじん)の風格を持つ。昭和55年(1980)頃来島した日本植物友の会副会長の松田修先生は「風格のあるみごとな大イチョウ。国指定文化財としても充分な値うちのある大イチョウ」と診断したそうである。

注連縄

銀杏の側面

案内看板

大銀杏は民家の庭先にある

新穂のお梅堂付近で見つけたチューリップ

5月にはこの花が咲き乱れていよう

http://www.digibook.net/d/3314e3bfa15a2a34682eafa4da22374c/?viewerMode=fullWindow


称光寺(佐渡市小木)   投稿者:佐渡の翼

2023年03月06日 06時00分43秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

称光寺は宿根木集落の人々の菩提寺である。寺の入り口の扉の右側は普通の大工が作成し、左側は船大工が作成した。その造作の違いは、船大工が作成した扉は一枚板で出来ているが、普通の大工が作成した扉は何枚かの板に分かれている点だ。こんな所にも当時の船大工の洗練された匠の技の一端を垣間見ることができる。扉の手前右側は、墓碑を設置する一等地で、主に船主さん達の墓が並んでいる。位牌のような形をしているので位牌墓碑と呼ばれている。墓碑の後面は洞窟状になっていて、その中に骨壷が納められている。船主の子孫が死に絶えると墓守をする人がいなくなる。そうなると長い年月をかけて破壊された骨壷と遺骨が自然に前面へと押し出されて来る。墓碑と墓碑の間に骨壷と遺骨の破片が見えるものもある。このような歴史的な経緯というものはどんなに資料を漁ったりネットで検索したりしても発見できるものではない!現場に行って地元を良く知る観光のプロに聞かねばこういう事実を知ることはできない。

位牌墓碑

観音像

山門

五輪塔がある

表面が苔生した地蔵

地蔵

そして地蔵

本堂

釣鐘

子抱地蔵

http://www.digibook.net/d/c71583979198203965edbfa4b430765c/?viewerMode=fullWindow


石臼塚(佐渡市真野小泊白山神社内)  投稿者:佐渡の翼

2022年06月06日 06時00分00秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

羽茂の小泊集落には椿尾同様、石仏、石臼などを作る石工職人が多数暮らしていたという。国道を真野から小木に向かうと左手に白山神社の看板が見えてくる。この神社の境内に、全国的にも珍しい石臼を積み上げた塚があった。塚という言葉は土を小高く盛り上げた構造物を意味するが、土を小高く盛り上げた墓の意味で使用することもある。石臼塚とは、時代の流れと共に各家庭で使われなくなった石臼を集めて積み上げ、石臼を供養する目的で作った墓のような意味合いなのだろうか?

小泊の石工職人の腕は確かで、彼らが作成した石製品は全国に流通したという。江戸時代末期には、それらは日本海沿岸に広く出荷され、明治から大正にかけては、北海道にも出荷されていたそうだ。なお、佐渡観光協会のホームページによれば、「白山神社の創建は不詳だが、屋島で敗れた平宗清が尾張の岡崎に住んだ後、佐渡に渡り祠を建てて鎮守としたのがこの神社の起源といわれている」そうだ。白山神社とは平家ゆかりの神社だったのか。


石臼塚

説明看板

白山神社の能舞台

http://www.digibook.net/d/f594853bb09d2878e508bf8670203748/?viewerMode=fullWindow


気比神社(佐渡市羽茂)    投稿者:佐渡の翼

2018年07月28日 01時38分10秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

気比神社とは主に漁労用具を祭る神社であり、福井県敦賀市の気比神社(国宝)が有名である。佐渡にも各地に気比と名の付く神社がいくつかある。小木と真野を結ぶ国道を通ると必ず目に入ってくるのが、この神社である。国道から能舞台が見える佐渡唯一の神社だ。茅葺きの能舞台の社殿を覆う板戸に少し穴が開いていたので、そこから中を覗きこんでみたら、確かに「松の絵」が描かれた舞台がほのぐらく浮かび上がっていた。境内には松尾芭蕉の句碑や義民善兵衛の碑などもある。国道沿いなので車の音が少しうるさい!やはり、神社の能舞台と言う物は人里離れた場所か、深山幽谷にあった方が似つかわしい。この神社は荘厳な趣と言うよりも、こんな交通至便の地にこんな舞台がという意外性が売りなのかもしれない。確かにこの付近を通るたびにいつも気になってしまう神社なのだが。。。

本殿

松尾芭蕉の句碑と義民善兵衛の碑

義民善兵衛の碑

境内から見た国道

http://www.digibook.net/d/f454ad33915f2030616b3d025023374a/?viewerMode=fullWindow


万照寺(佐渡市相川)   投稿者:佐渡の翼

2018年06月14日 06時00分55秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

万照寺とは、相川の京町通りのはずれにある寺だと言えば分かりやすいだろう。この寺は諏訪町鉛坂にあり、万行寺と専照寺が、昭和十七年に合併して万照寺となった。現在の寺地は、万行寺があった場所だ。この寺の裏には大岡源右衛門、源三郎父子の墓があり、慶安の事変と関係のある寺だ。

その昔、徳川家光が48歳で病死した後、11歳の息子である幼君徳川家綱が将軍職を継ぐこととなった。これを知った由井正雪や丸橋忠弥らは、幕府転覆、浪人救済を大義名分とした倒幕運動を起こした。これが世に言う「慶安の事変」である。そして丸橋忠弥らに槍の道場を貸したりして彼と親交のあった大岡源三郎は、幕府転覆に加担したとして佐渡への流刑に処せられた。大岡は丸橋忠弥から習った槍を教える道場を万照寺近くの諏訪町に開設し、それで生計を立てていた。そして最後は相川の街を一望できる春日崎の高台で自刃して果てた。幕府の権威そのものたる佐渡奉行所がある相川に向けて切腹を試みたのは大岡の幕府に対する敵愾心の強さを示していたと言えよう。そして大岡父子の亡骸は槍道場の近くにあるこの万照寺に葬られたのだと筆者は推測している。


石臼

本堂内の阿弥陀如来

境内に咲いていたチューリップ

http://www.digibook.net/d/e0c5a3f7805d2875f9a8bf124e3bb74a/?viewerMode=fullWindow


杉島聖観音大日堂(佐渡市相川差輪)  投稿者:佐渡の翼

2018年05月10日 06時00分56秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

橘集落のはずれに差輪(さしわ)という小さながある。ここに杉島聖観音と言う磨崖仏を祀った祠(大日堂)があると聞いたので、訪ねてみることにした。ホテル岬を出た後、県道を相川方面に向けて歩いた。道が下りになり、下りきった所の左手に大きな岩が三本ほど建っていて、そのうちの二つに食い込むようにして祠が建っていた。祠の右側の塀の所に橘集落に住む岩崎さんと言う御夫婦が寄贈したとの張り札があったので、この御夫婦の住んでいた家を改造して祠にしたのであろう。祠の内部は確かに民家のような構造である。玄関があり、奥の居間のような場所に祭壇があり、魔崖仏は布で覆われていた。この布をめくって観音様のご尊顔を拝した。外から見ると家が岩に食い込むようにして建っているが、実際は魔崖仏を囲むためにこのような造りになった事がようやく分かった。県道沿いにある不思議なおうちと言った風情なので容易に場所は分かる。磨崖仏のある祠の部屋の扉には更に15センチ四方の小さな扉が設けてあり、ここを開けると外から観音様を拝む事ができるようになっていた。

祠の外観

ここは居室だったようだ

弘法大師像


大運寺(佐渡市真野)   投稿者:佐渡の翼

2018年05月07日 06時00分50秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

不思議なお寺である。苔生した石段を上がると端正な茅葺屋根の山門が見えてくる。その山門の前に左右に三体ずつの守り地蔵がある。赤い前掛けをかけた可愛い地蔵である。2015年の黄金週間の頃に訪ねたのだが、猫柳の枝が飾られ、それが風に揺れていた。本堂は書院窓にトタン屋根で、さほど古いと言う印象は受けないが、山門は前から見ても後ろから見ても優しい姿で美しい。真野の飛鳥路にあるちいさなそれでいて何故か印象に残るお寺である。

左側の地蔵

右側の地蔵

本堂

山門の彫刻

http://www.digibook.net/d/1304cb1bb1982a39fd6fbd92f220b65e/?viewerMode=fullWindow


根本寺(佐渡市新穂)   投稿者:佐渡の翼

2018年04月26日 06時00分56秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

日本全国で、日蓮宗霊跡本山に指定されている寺は13カ寺あるが、佐渡では新穂の根本寺と佐和田市野沢の妙照寺の二つだけである。日蓮が佐渡へ配流となると、彼は時の佐渡守護代本間氏に預けられ、荒れ果てた、その昔は死人の捨て場であった塚原の三昧堂の中に入れられた。日蓮は寒さと飢えと戦いながら、翌年の4月に市野沢の妙照寺に移るまで、他宗の僧侶達とこのお堂の中で塚原問答を戦わせ、後年「開目抄」を著したと言う。

ここで日蓮の佐渡配流の理由に関し、史実を踏まえた上での私見を披露したいと思う。日蓮は文永8年(1271年)、幕府により佐渡に流された。日蓮が他宗を排撃し、幕府を批判したためだからだ。日蓮は著書の中で「人々が法華経の教えを捨て、浄土教に帰依したために災害が続出しており、このままでは内乱や侵略が起こるであろう」と主張した。つまり、日蓮は、「法華経を信仰しさえすれば、他国からの侵略を防衛できるし、未曾有の災害も回避できるという」独特の理論を展開したわけだ。

日蓮から批判された僧達は、「日蓮は法華経に固執し、他宗を批判し、また弓矢などの戦の道具を蓄え、凶徒を一箇所に集めている」と幕府に密告した。その結果日蓮は拘束され、彼らの訴えを認めさせられた。宗派間の抗争はいつの世にもあるし、これが異教徒同士の争いになると宗教戦争と化す。日蓮の批判の矛先は、幕府の実権を握る北条氏一門の帰依する僧たちに向けられていた。つまり、「日蓮は、時の政権に対し弓矢を引き、幕府転覆を図る不届きな輩である」との危機感を抱いた幕府は、国家安寧のため、日蓮に対する何らかの処罰を考えた。日蓮は「法華経を正しいと認めよ、さもなければ流罪・死罪になろうとも法華経のためには身を捨てても惜しくはない」と言う強い意志を示し、決して自身の主張を曲げようとはしなかった。それゆえ、文永8年、幕府は日蓮を捕縛し佐渡への流刑に処したのである。

とまあ、歴史の小難しい話はこのくらいにしたいし、史実の解釈に無理があってもこのブログは歴史学会の論争ブログではないので、私の解釈に異議のある方は歴史専門ブログで反論して欲しい。ところで根本寺に参拝するためには拝観料を支払う必要がある。ほとんどの佐渡の寺は無料で参拝できるが、何故この寺だけ金を取るのか?素朴な疑問だが、相川金山が隆盛を極めた慶長年代の山師で日蓮に帰依した味方但馬が寄進して建立した寺だけあって、境内の建築物は豪勢そのものだ。さぞかし維持費用がかさむのもむべなるかなであり、そのための拝観料徴収は止むをえまいと思った。

二天門

ツツジが満開

本堂

水子地蔵尊

水子地蔵

このように

並んでいる

観音像

太鼓堂

狸像

境内で見つけた花菖蒲

同じく、とある花

http://www.digibook.net/d/b285e73781dc0071f9cdb792f021364a/?viewerMode=fullWindow


蓮華峰寺(佐渡市小木)   投稿者:佐渡の翼

2018年04月22日 06時00分40秒 | 佐渡の神社仏閣及び史跡

蓮華峰寺は、真言宗智山派の名刹であり、毎年5~6月には紫陽花が咲き乱れるため別名を紫陽花寺と称されている。周囲を囲む山々が蓮華の八葉を開いたように見える事からこの名が付いた。紅葉や雪の頃に訪れるのも一興なお寺である。この蓮華峰寺、今でこそ観光バスが乗りつけるほど広い道路や駐車場が整備されているが、明治の詩人与謝野鉄幹晶子夫妻が訪れた際は、国道から細い山道を下らねば到達できない場所にあった。筆者は、昨年の5月の上旬にこのお寺を訪ねたが、そこはかとない風情を醸しだしていた。


蓮華峰寺入口

八角堂

弘法大師像

金剛力士像

左手の金剛力士像

http://www.digibook.net/d/2455a393a0da0071e48e3590ce22360a/?viewerMode=fullWindow


i8ロードスター動画1

i8ロードスター動画2

i8ロードスター動画その3

ブログの記事内容について

「佐渡の翼」の記事内容は、調査スタッフ個人の、お店や宿泊施設に対する感想や意見を記述したものです。これらは、すべての読者が感じる内容とは必ずしも一致しません。「佐渡の翼」に掲載された記事を参照した後、読者ご自身の判断で行動した結果、生じた損害・損失について、当ブログは一切責任を負いかねますのでご注意下さい。更に、お店の外観写真やメニューはあくまでも取材時点でのものであり、最新情報とは必ずしも合致しておりません、重ねてご注意下さい。佐渡島内の焼肉屋と焼き鳥屋は調査の対象外です。これらのお店に関する情報をお求めの方は「佐渡なび」(http://www.sadonavi.net/)にアクセスしてお調べ下さい。なお、当ブログで紹介後に営業を休止したり廃業した飲食店は、宿根木の日本料理の名店「菜の花」(2013年4月に東京上野桜木で再オープン。電話番号:03-3827-3511)、小木の新保屋食堂」、佐和田の居酒屋「侍」、佐和田の中華料理「潤采」と「洛陽」、佐和田のラーメン大学「かねふく」、佐和田のラーメン店「燕人」、佐和田の喫茶店「トムキャット」、佐和田のイタリアン「バール・フェリチータ」、佐和田の「石川食堂」、佐和田のラーメン屋「げんき家」、佐和田のキャバクラ「パレス」、八幡のスナック「メンソーレ」(カラオケ、ココルに変身)、二見のラーメン屋「二見食堂」、真野の「寿司正」(後継は洋風のお店になる模様)、相川の「りき寿司」、相川ののら犬カフェ、金井の蟹料理専門店「かにっこ」、金井の食堂「ランチ@さとにわ」(佐和田へ移転)、金井のスナック「花音」(スナックyy'78に変身)とスナック「リバーサイド」(居酒屋兼食堂:クッチーナに変身)、畑野の食堂「菜花村」、両津の喫茶&レストラン「アン」、両津のファーストフードの店「マックス」、両津の「彩花停」(海結に変身)です。なお、紹介後に閉館したホテルは小木の「ニュー喜八屋」、佐和田の「シルバービレッジ」(改装され、ホテル浦島東館として再スタート)、相川のホテル「さどや」、えにしの宿「新ふじ」、相川やまきホテル。廃業した旅館は、小木の「ごんざや旅館」と相川の「中山旅館」です。 2018年8月10日現在の情報に基づいています。

佐渡の翼管理人

当ブログは著作権法により保護されています。当ブログ内で提案された「アイデア」の借用、具現化、実行等には何らの制限もありませんのでどうぞご自由にご利用下さい。当ブログの記事内容を著作権者の許諾なしに「引用」することは、その必然性があれば著作権法上は合法です。しかし著作権法第32条では、「引用は、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない」と定められています。「正当な範囲内で」 とは「 引用しすぎてはいけない」という事であり、質的にも量的にも、自身の文章が「主」、引用部分が「従」という関係にある(最高裁判例)事が求められています。なお、アクセス状況は2009年2月1日からの累計です。 Copyright © 2009 Wing of Sado All Rights Reserved