臨済宗南禅寺派圓通寺

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南無阿弥陀仏と禅 Ⅰ

2020-08-21 | 
●南無阿弥陀仏でいいですか
 よく檀家さんから「禅宗ではお参りするとき何と唱えますか」とたずねられる。私は「南無釈迦牟尼仏と唱えてください」と答えている。あるいは「南無阿弥陀仏ではいけませんか」といわれると「それでいいです」と答えている。答え方があいまいなのだが相手の信仰を否定しないのが禅宗のモットーである。ここに少し「南無阿弥陀仏と禅の立場」を考えてみる。
臨済宗僧侶の葬儀では最後にこのように3回唱える

南無西方極楽世界大慈大悲阿弥陀仏
なむしほうきらしかいだいずだいひおみとーふ

一般に日本の臨済宗では檀信徒に「南無阿弥陀仏を唱えてください」とすすめていない。僧侶の葬儀にはこれを唱えているのだからこれを唱えていいはずである。
同じ禅宗でも黄檗宗はこれを唱える。台湾やベトナムの臨済宗もこれを唱える。日本の臨済宗僧侶葬儀でこれを唱えるのは黄檗宗の影響だと思われる。この発音は「おみとふ」と明時代の中国語というのがその理由である。
私の友人がベトナムの僧侶に「悟りとは何か」とたずねたら「南無阿弥陀仏」と答えたそうだ。あるいはベトナムの僧侶は手紙の最後に「南無阿弥陀仏」と書く。日本では「九拝」あるいは「合掌」と書く。いずれにせよベトナムでは「南無阿弥陀仏」は仏教徒の日常的な信仰生活なのである。

●鈴木大拙博士「妙好人」
『鈴木大拙禅宗』第10巻に「妙好人」がある。妙好人とは浄土真宗の信者で、「南無阿弥陀仏」に徹した生活を続けるうちに目の開けた境涯になった人のことである。あるいはそれにより独特の信仰生活に目覚めた人をいう。
浄土真宗の方では妙好人を主流の信者としていないのだが大拙博士がこの論文を発表して以降一般に知られるようになった。
 才市という熱心な念仏者があった。かれは文字がよく読めなかったらしい。大拙博士は「才市のように耳のみを働かすことになると、他から受け入れるものが多くなる。自分の方から働き出すことが少なくなる。自分の念も、從って高ぶらなくなる。・・」と言っている。(262p.)

○わたしゃ、いま娑婆で法界諸仏に護られてを(お)るぞ、うれしや、なむあみだぶつ。
○子の心、子の心わ(は)親の心よ。親の心、親の心わ(は)子の心よ。親子の心に二つなし。ひとつの心。・・・

○わたしゃしあわせしなずにまいる。いきさせて参る上をど(浄土)が、なむあみだぶつ。
○りん十(臨終)まつことなし、いまがりん十。なむあみだぶつ。
○ほどけ(佛)からほどけもろうて、なむあみだぶつ。なむあみだぶつが、わしのほどけよ。

○ぶつのねんぶつみだ(阿弥陀)の聲、さいちになりてなむあみだぶつ。
○あみだわ(は)これこれ、ここにを(お)る、なむとあみだが、なむあみだぶつ。にょらい三(如来さん)、わたしゃこがなこと(このようなこと)かきます。うれしいな。

●捨てる
 自分の全てを阿弥陀仏にお任せするのが浄土信仰である。ところが世の中は自分の都合のいいことばかりではない。むしろ自分に都合の悪い事の方が多い。自分に都合の悪いことをも阿弥陀仏にお任せするのはやさしいことではない。したがって「易行」と呼ばれる念仏は簡単そうにみえて実は、たいへん難しい「無我の行」である。この無我は仏教の根本であり禅のモットーとするところである
 2012年秋に友人の紹介でモスクワ大学を訪れた。私の講座の後、ある女学生さんから質問があった。
 「私はチベット族です。チベット人は信仰熱心な民族です。信仰はたいへん不思議な世界です。言葉で説明することはできません。おたずねしたいことは、信仰と坐禅は同じだと思うのですが、いかがですか?」と。
 私は答えた。 
「はい、同じです」と。
 彼女は国費留学に違いない。チベットからモスクワ大学に来て日本語を学んでいる。日本語を学んで二年目だそうだ。私はこの質問に頭が下がった。的を射た質問である。何よりもチベット族の信仰に誇りを持っている。もちろん彼女はロシア語もできる。その後の彼女の消息はきいていないが将来が楽しみである。

坐禅会 毎週土曜日午前6:25~8:00
久留米市宮の陣町大杜1577-1圓通寺 
初心者歓迎 参加費無料 
詳細は電話でお問い合わせください。0942-34-0350
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学校やクラブなど団体研修 坐禅申し込み随時うけたまわります。
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