大正5年11月20日 作
出典・岩波書店『漱石全集』第12巻昭和41年
七言律詩・無題 (下平侵韻)
眞蹤寂寞杳難尋
欲抱虚懐歩古今
碧水碧山何有我
蓋天蓋地是無心
依稀暮色月離草
錯落秋聲風在林
眼耳雙忘身亦失
空中独唱白雲吟
眞蹤(まことのあしあと)は寂寞として杳(はる)かに尋ね難く
虚懐を抱いて古今に歩まんと欲す
碧水碧山 何んぞ我有らん
蓋天蓋地 是れ無心
依稀(いき=おぼろ)たる暮色 月は草を離れ
錯落(さくらく=いりみだれ)たる秋聲 風は林に在り
眼耳雙(ふたつながら)忘れて身も亦(また)失い
空中に独(ひと)り唱(うた)う白雲の吟(ぎん)
吉富
夏目漱石の漢詩についてお尋ねします。漱石は十代のころから漢詩を学びました。陶淵明や李白の詩は漱石の「則天去私」の考えに影響を及ぼしたと思いますが、いかがでしょうか。
ChatGPT:
おっしゃる通り、夏目漱石は十代のころから漢詩を学び、特に陶淵明や李白の詩に深い影響を受けました。そして、「則天去私」の境地へ至る過程においても、これらの詩人の思想が漱石に影響を与えたと考えられます。
陶淵明の影響
陶淵明(365–427)は、官職を捨てて田園生活を送り、自然の中で自己の本質に立ち返る生き方を詩に詠みました。彼の詩には、名利を超えた自由な精神が表れています。漱石もまた、晩年において功名や世俗的な価値観を超えた「則天去私」の境地を目指しました。この点で、陶淵明の「帰去来辞」や「飲酒」などの詩が、漱石の思想形成に影響を与えた可能性が高いです。
李白の影響
李白(701–762)は、自由奔放な詩風と仙人的な超然とした生き方で知られています。彼の詩には、天真爛漫な感性や自然との一体感が表れています。漱石の漢詩の中にも、李白のように「自然と一体となることへの憧れ」や「酒を媒介とした解脱の境地」が見られます。また、李白の「謫仙(たくせん)」と称される生き方は、漱石が求めた「私」を超越した生き方にも通じるものがあるでしょう。
「則天去私」との関係
「則天去私」は漱石晩年の思想であり、自己のエゴ(私)を捨て、自然の理(天)に従うという考え方です。陶淵明の「無為自然」の思想や、李白の自由な詩風は、漱石が「私」からの解放を模索する上で、大きな示唆を与えたと思われます。実際に、漱石の漢詩には陶淵明や李白を彷彿とさせる表現が見られますし、彼の文学的思想にもこれらの詩人の影響が色濃く残っています。
あなた:
夏目漱石の最後の漢詩は陶淵明や李白の影響が大です。いかがでしょうか。
ChatGPT:
おっしゃる通り、夏目漱石の最後の漢詩(七言律詩)には、陶淵明や李白の影響が色濃く表れています。この詩を詳しく見ていくと、彼らの詩風や思想が漱石の「則天去私」とどのように結びついているかがわかります。
陶淵明の影響
陶淵明の詩の特徴として、「無為自然」の境地や、世俗を離れた静謐な生き方があります。本詩の前半にある以下の句には、その影響が読み取れます。
眞蹤寂寞杳難尋(真の道は寂しく、はるか遠く探し難い)
欲抱虚懐歩古今(虚心を抱き、古今を歩む)
これは、陶淵明の詩に見られる「自然に身を任せ、名利を超越する姿勢」に通じます。漱石は、人生の晩年に至って、自己を超越しようとする心境に達しており、陶淵明の「帰去来辞」にあるような「俗世を離れ、心を虚しくして生きる」境地を表現しているように見えます。
また、次の句も陶淵明の影響を強く感じさせます
碧水碧山何有我(青い水、青い山──そこに我はあるのか?)
蓋天蓋地是無心(天を覆い地を覆うもの、それは無心である)
この部分には「自己を自然の中に溶かし込む」思想があり、陶淵明の詩に見られる「自然との一体感」と一致します。
李白の影響
李白の詩の特徴として、「豪放さ」「自然との交感」「酒と共に生きる境地」があります。本詩の後半には、李白の影響が特に顕著に見られます。
依稀暮色月離草(夕暮れのかすかな色、月は草から離れ)
錯落秋聲風在林(秋の声が入り乱れ、風は林の中にある)
これは李白の詩に見られる「風景の中に心情を投影する」手法に通じます。李白はよく「月」や「風」「酒」を通じて、超越的な境地を表現しましたが、漱石もまた「風」や「月」を用いて、自身の心境を描写しています。
また、最後の二句も李白の影響を強く感じさせます。
眼耳雙忘身亦失(眼も耳も忘れ、身さえも失う)
空中独唱白雲吟(虚空に独り、白雲の詩を吟ず)
これは、李白がよく用いた「自己の消滅」「無我の境地」を思わせます。李白の詩には、「独酌」「独り天に語る」「白雲と語る」といった表現が多く、まさにこの句は李白の詩風を彷彿とさせます。
まとめ
この詩は、漱石が晩年に到達した「則天去私」の境地を示しつつ、陶淵明の「無為自然」と李白の「超越的な詩風」を融合させたものと考えられます。特に、陶淵明の「虚心」「自然との一体感」李白の「豪放な詩風」「自己の消滅」
これらが見事に合わさった詩であり、漱石が最終的に「天に則る」境地に達したことを示唆しているように思われます。
あなた:
「眼耳雙忘身亦失」は漱石の死を前にした覚悟のようです。「空中独唱白雲吟」は、我が人生はこれでいい、と言いたいのでしょうか。
ChatGPT:
まさにその通りです。「眼耳雙忘身亦失」という句には、漱石の死を前にした覚悟が強く滲んでいるように感じられます。この句をもう少し掘り下げると「眼や耳という感覚すら忘れついには自己の存在さえも失う」という意味になります。これは単なる肉体の死というよりも「則天去私」の究極的な境地すなわち個としての私を完全に超越し天地自然の流れに溶け込むことを指しているのではないでしょうか。
そして、「空中独唱白雲吟」 ですが、これは「白雲を相手に独り詩を吟じる」と読めます。李白の詩風に通じる表現ですが、ここには「我が人生はこれでよい」という静かな肯定が込められているように思われます。白雲は古来、無常や自由を象徴するものとして詩に詠まれてきました。漱石は「白雲」を見上げながら、自らの人生を振り返り、その終焉を静かに受け入れているのでしょう。
この詩全体を通じて感じられるのは、激しい葛藤や苦悩ではなく、むしろ穏やかで達観した境地です。世俗の煩わしさを超え、天と地の間に身を任せることで、「則天去私」の理想へと至った漱石の最期の心境が、まさにこの詩に結晶しているのではないでしょうか。
あなた:
ありがとうございました。これをGooblog、Facebookに載せてもいいでしょうか。
ChatGPT:
どうぞ、ご自由にお使いください!GooblogやFacebookに載せていただいて構いません。漱石の漢詩について深く考察する機会をいただき、こちらこそ感謝いたします。もし記事として整えたい部分や追加したい点があれば、お手伝いできますので、お気軽にお知らせください。